夏目漱石 『硝子戸の中』

 『硝子戸の中(うち)』 は、大正4(1915)年1〜2月に朝日新聞に掲載された夏目漱石の随筆集である。新聞には毎日連載され、(1回の分量は文庫本で約2ページ)全39回のまとまった随筆となったものである。
 本書を読んで思い起こすのは“晩年”という語である。
 もちろん、漱石は本作を書いた翌年に亡くなったのだから、晩年の作品だというのは事実なのだが、それは結果に過ぎない。しかし、作家には晩年あるいは老年期でなければ書けない文章があるのだなあという感慨を抱かざるを得ないのである。
 本作では 「死」 が大きなテーマとして取り上げられている。飼犬の死、友人や親戚の死など、多くの死がここには書かれている。そして、大病を患った漱石自身も、自らの死を見据えて、これを著したと思われる。
 大正3年、『こころ』 を書き上げた漱石は体調を崩し、1ヶ月あまり寝込んだという。本作はその翌年に書かれたものだが、まだ自宅療養中だったようである。
 しかし、主人公の自殺、明治の精神への殉死といった深刻なテーマを取り上げた 『こころ』 と違い、本作には暗さが感じられない。むしろ、力の抜けてリラックスした状態で、明るさとユーモアを交えながら、日常生活や過去の思い出話を淡々と綴っているのである。
 本作の中で、漱石自身の他の作品について言及されているのは、『我輩』 のモデルになった猫くらいのものである。(本作に書かれている漱石の親戚の多くは、次作 『道草』 に変名で登場する。)本作が文学誌ではなく新聞に連載されたものだからというのもあるだろうが、漱石の小説を読んだことのない人にも、この随筆はおすすめしたい。120ページ程度の本だが、できればゆっくりと味わうように読んでいただきたいと思う。
 手元に置いて、何度も読み返したい本の一つである。

硝子戸の中 (新潮文庫)

硝子戸の中 (新潮文庫)