ドストエフスキー 『地下室の手記』

 ドストエフスキーの 『地下室の手記』 (1864年発表)が面白すぎる。
 本書は 「I 地下室」、「II ぼた雪に寄せて」 の2部構成になっており、1部は主人公である40歳の 「俺」 の哲学的考察、2部は物語である。
 もっとも、「I 地下室」 は冒頭の自己紹介部分以外、読み飛ばして構わない。光文社古典新訳文庫の巻末解説によると、出版当時、検閲によって削除された箇所があり、そのままになっているからだ。丹念に読んでもどこが削除されたのどうせわからないし、ストーリー皆無の完全な自分語りが延々続くだけである。

 「II ぼた雪に寄せて」 は 「俺」 の24歳のときからの話で、ドタバタ喜劇のように面白おかしくスピード感のある物語である。
 前半の主なエピソードを書き出してみよう。

  1. 初めて入ったビリヤード屋で勝手がわからず通路に立っていたところ、一人の将校が 「俺の肩を引っ掴むなり、むっつり黙ったままなんの警告も説明もなしに、俺が突っ立っていた場所から別の場所に俺を移動させ、自分は何事もなかったかのようにすっと通り過ぎた。」
  2. そのことを根にもった 「俺」 は2年間(!)にわたって将校をストーカーよろしく追いかけるが、結局、小心者ゆえ何の行動も起こさない。
  3. 学生時代の友人たちと会話していたら、ある友人の壮行会が計画されていることが判明する。自分だけ誘われていなかったのだが、無理矢理、壮行会に出席し、案の定全員からひんしゅくを買う。
  4. 壮行会が終わり、友人たちは二次会へ流れていく。一人取り残された 「俺」 は、馬橇に乗り、御者を殴りつけながら後を追う。
  5. 着いた先は売春宿だった。数時間後、「俺」 は娼婦・リーザと語り合う。
 ここでの 「俺」 とリーザの会話が傑作だ。

「ここはもう長いの?」
「どこ?」
「この家さ」
「二週間」 女の返事は、ますます短く、途切れがちになっていった。蝋燭はすっかり消えてしまい、もう女の顔も、見分けがつかない。
「両親はいないの?」
「ええ……いえ……いるわ」
「どこにいるんだい?」
「あっち……リガ」
「何をしてるんだい?」
「べつに……」
(中略)
「年はいくつかね?」
「二十歳」
「どうして両親のところから出て来たんだ?」
「べつに……」
このべつには、ほっといて、ムカつくわ、という意味だった。


 (強調部は原典では傍点。)

 確かにムカつく、というかウザい男である。風俗嬢と客の会話と思えば、むちゃくちゃだ。
 しかし、「俺」 はこの後5ページにわたって、彼女に説教を始める。それに対するリーザの返答は以下のとおりである。

「なんだか、あなたは……まるで本を読んでいるみたいなんだもの」と、女は言うと、その声には再び、どこか嘲笑的な調子が響いていた。
 この指摘には傷ついた。まさかこんなことを言われるとは、思ってもいなかったからだ。

 傷ついた 「俺」 はブチ切れて、今度は9ページに及ぶノンストップの説教を行うのである。ちなみに、リーザは決して無愛想なわけではなく、むしろ 「俺」 に対して無私の愛をそそぐ理想の女性として描かれている。(こういう女性って、『罪と罰』 にも出てくるよね。)
 この後も、リーザとの再会、最低最悪の結末へと盛り上がっていくのだが、そのあたりはぜひ本を手にとって読んでいただきたいと思う。

 「俺」 自身が 「アンチヒーローのあらゆる特性が集められている」 と語っているとおり、主人公は自意識過剰で尊大で傲慢で卑怯である。思想を語るばかりで行動が伴わず、しかもその思想は受け売りだ。
 自意識過剰な小説というと、太宰治の 『人間失格』 を思い浮かべるが、太宰の主人公が自虐的であるのに対し、本書の 「俺」 は他罰的であり、“自分は全て正しい。悪いのは周囲だ。” と主張する。
今の言葉でいう 「非コミュ」 の典型と呼べる主人公の爆発ぶりだが、この小説が150年前に書かれたことを考えると、古さを感じさせないところが素晴らしい。
 ロシア文学ってすごいんだな。

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

 新潮文庫版は主人公の一人称が 「僕」 だったのだが、光文社古典新訳文庫では 「俺」 になっている。ひ弱でオタクっぽいイメージの新潮文庫版と、性格悪いおっさん風の光文社版とどちらが良いかわからないが、後者のほうが読みやすいと思う。