夏目漱石 『行人』

修善寺の大患と後期三部作

1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。


夏目漱石 - Wikipedia

 上に書かれている「修善寺の大患」の後に書かれた漱石の「後期三部作」と呼ばれる作品、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』 は、ストーリー上直接のつながりはないものの、以下のような共通点がある。

  • 途中で語り手(または主人公)が交代する。
  • 後半に語り手(または主人公)による長い手紙が書かれている。
  • 「死」を扱ったエピソードが書かれている。

 このうち、1番目と2番目は形式上の共通点だが、3番目については小説を理解する上で欠かせない要素=テーマとなっている。
 『彼岸過迄』 では、幼女の死(漱石自身の娘の死がモチーフといわれる)が、『行人』 では主人公・一郎が自身の死を意識する様が描かれている。さらに、『こころ』 では主人公・「先生」が自殺してしまう。
 このように、作風がどんどん深刻化し、切羽詰った状況へ向かって行ったのは、作者漱石が大病を患い生死を彷徨った経験と大きな繋がりがあると想像することは難しくない。


一郎の苦悩

 夫婦仲の悪い一郎は人生に絶望するが、奇矯な行動により家族を翻弄している。弟・二郎は一郎の親友「Hさん」に懇願し、兄を旅行に連れ出してもらうことに成功する。Hさんは旅先から二郎に宛てて長い手紙を書き送る。

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」


夏目漱石 - 『行人』

 上は、Hさんの手紙に記された一郎の有名な言葉である。死か狂気か宗教か。生きることに行き詰まった一郎の心境を端的に言い表しているのだが、この言葉には続きがある。

「しかし宗教にはどうも這入(はい)れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」

 この箇所を読むと、一郎の言う「三つのもの」を彼がどれだけ本気で考えているのか疑問に思えてくる。というより、死も狂気も宗教も、彼にとって現実から逃避するための手段として捉えているにすぎないと考えられる。無論、彼はこれら三つのうちどこへも到達することなく、小説は結末する。
 「まあ気違だな。」 ――「まあ」って何だよ、「まあ」って。


お貞さんの縁談

 本作は作者の病気のため新聞連載が数ヶ月間中断したこともあって、雰囲気が途中から変わってしまったり、いくつかのエピソードが中途で投げ出されたままになったりしている。しかし、一つだけ最初から最後まで言及されるエピソードが存在する。即ち、親類(女中らしい)のお貞さんの縁談にまつわる話である。
 婚礼の直前になって媒酌人を頼まれた一郎が、お貞を書斎へ呼び、30分ばかり話し込む場面がある。(以下の引用箇所の語り手は二郎である。)

けれども書斎に入った彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。

 結局、二人の会話の内容については最後まで明らかにされないままなのだが、結末に近いHさんの手紙の中で、一郎はHさんにこう語る。

 兄さんはお貞さんを宅中(うちじゅう)で一番慾の寡(すく)ない善良な人間だと云うのです。ああ云うのが幸福に生れて来た人間だと云って羨ましがるのです。自分もああなりたいと云うのです。お貞さんを知らない私は、何とも評しようがありませんから、ただそうかそうかと答えておきました。すると兄さんが「お貞さんは君を女にしたようなものだ」と云って砂の上へ立ちどまりました。私も立ちどまりました。

 作中、お貞の科白はほとんどなく、彼女がどのような人物なのか、直接には語られていない。だが、一郎は彼女について、「慾の寡ない善良な人間」だと評していて、しかも親友であるHさんと同様に信頼をおいている。
 一郎ほどの切羽詰った人物であっても、「善良な人間」に対する信頼が存在するところに、一抹の光を感ずるのである。

行人 (新潮文庫)

行人 (新潮文庫)