夏目漱石 『こころ』

 漱石後期の傑作『こころ』は、1914年(大正3年)に発表された。
 「上 先生と私」、「中 両親と私」、「下 先生と遺書」の三部構成だが、「下」が全体の約半分を占めており、「上」で度々語られる先生の謎めいた発言(伏線)に対して、「下」でそれらが解明されるというプロットになっている。

 「下」では、先生、先生の友人 K、お嬢さん(後の「奥さん」)の三角関係、K の自殺といった事件を中心に書かれている。K の自殺の動機について、以下のように先生は推察する。

 同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極(き)めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易(たやす)くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過(よこぎ)り始めたからです。


 「下 先生と遺書」 五十三

 一方、K の死後、何年経ってからのことか不明だが、先生もまた自殺を決意する。

 すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)いました。


 「下 先生と遺書」 五十五

 明治天皇の大葬の日、乃木大将は妻とともに自害した。「遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた(乃木希典 - Wikipedia)」という。
 以下は本作の最終章からの引用である。

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。


 「下 先生と遺書」 五十六

 漱石の小説の多くは、時代背景、人間と社会との関わりといった事柄が丹念に描かれている。「恋愛」のように個人の問題であっても、その背後には家族(家制度)や世間、社会というしがらみが必ず存在する。また、職探しを行う登場人物は、職業のことを必ず「地位」と呼ぶ。これは「社会的地位」という意味であろう。社会に対する見方が肯定的であるにせよ批判的であるにせよ、作中の人物と社会との関係に対して必ず言及するというのが、今までの漱石の作品の特徴だったのである。
 ところが、本作の主人公「先生」は、いきなり「明治の精神」なるものを持ち出して、自殺を決心する。三角関係の話はどこかへ消えてしまっているし、K が感じていたと推測する「淋しさ」さえ、最後のほうでは忘れ去られているように見える。
 そもそも、「明治の精神」とは何なのか。その内容について全く書かれていないので、さっぱり分からないのだ。(当時、生きていた人々には自明の思想だったのかと考えると、そんなことはないだろうと思わざるを得ない。)少なくとも、「先生」以外の登場人物とは直接関係のない事柄であるとしか考えようがないのである。

 結局、何だかよくわからないというのが結論なのだが、同時に多様な解釈が可能になっているところが、本作の面白さでもある。

こころ (新潮文庫)

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