夏目漱石 『彼岸過迄』

彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題(みだし)である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。


夏目漱石 - 彼岸過迄に就て

 作者漱石は『彼岸過迄』について、「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだ」と述べているが、本作は今日一般にいう短編小説集ではなく、また連作短編という趣きでもない。後の『行人』、『こころ』との関連で考えるならば、途中で語り手を交代させることによって重層的な効果を狙った長編小説の手法と捉えることも出来そうだが、それにしては本作は中途半端な面があり、過渡期の作品と呼ぶしかなさそうである。

 本作は、「風呂の後」、「停留所」、「報告」、「雨の降る日」、「須永の話」、「松本の話」、「結末」の八つの章から構成される。
 大部分は三人称で書かれているが、それぞれの章は登場人物の視点から描かれており、冒頭から「報告」までは敬太郎、続いて千代子(「雨の降る日」)、千代子の従兄・須永、須永の叔父・松本、そして敬太郎(「結末」)と、視点は一巡する。
 漱石の小説に登場する女性の中で、千代子は最も魅力的なヒロインだと僕は思う。若々しさ、自己主張の強さ(しかし決して強すぎない)、会話の巧みさなど、色々の面において、彼女は群を抜いている。「雨の降る日」は、幼女の急死という事件を千代子の視点から描いた章だが、漱石作品には珍しく、女性視点であることに注目したい。

 「雨の降る日」では、叔父・松本の家を訪問中に、松本の末娘・宵子が千代子の目の前で急死する。通夜、葬儀、骨上(こつあげ。当時は火葬するのに一昼夜かかったらしい)と儀式の進行とともに、幼女の死という強い悲しみが描かれているのだが、この場面において、男たちは全くの無力、いや無能をさらけ出している。
 そもそも、故人の父親である松本が、骨上に欠席しているのはどういうわけなのだろう?(この点については何も書かれていないのだが。)
 また、須永は不謹慎なことばかり言って、千代子に責められる。

 二人の問答を後の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものを袂から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘(たし)なめた。
「市さん、あなた本当に悪(にく)らしい方ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
 須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零(こぼ)すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚(おぼえ)があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」

 「来ないほうがいい」とは随分な言われようだが、これはどう考えても須永のほうが悪い。
 さらに、骨上から帰宅した後の二人の会話はこうである。

「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵(こしら)えてちょうだい。可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」

 もはや最低である。千代子の視点というのを除いても、須永は人間としておかしいとしか思えない。

 この後、「須永の話」に移り、須永と千代子の関係が、須永の視点で延々と描かれるのだが、彼の考え方には全く共感できない。須永は、千代子のことを異性として意識していたわけではないのに、他の男が身近に現れると、急に嫉妬心にかられ、それゆえに、千代子から「貴方は卑怯だ」と、結婚する気もないのに思わせぶりな態度を取るのは侮辱であると、責められることになる。
千代子にばかり共感するのは、本作の読み方として妥当かどうかよくわからない。しかし、敬太郎はただの野次馬、須永は人でなしときては、ヒロインを礼賛するしかないのではなかろうかと思う。

彼岸過迄 (新潮文庫)

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