谷崎潤一郎 『亡友』

 『亡友』 は大正5年9月に発表された短編小説。大正元年に亡くなった学友大隅を 《私》 が回想するという筋立てになっている。
 大隅のモデルとなったのは大貫晶川(おおぬきしょうせん、1887-1912) という詩人・作家で、その名はほとんど知られていないのだが(僕も知らなかった)、岡本かの子の兄である。(かの子もちょっとだけ作中に登場する。)

……其の頃の文壇を、支那の官兵が掠奪をするような勢で、荒らし廻った自然主義の風潮の中へ、感激し易い大隅君も御多聞に洩れずに捲き込まれた。最初に国木田独歩を崇拝し、それから田山花袋氏に趨(はし)り、最後に島崎藤村氏を担いで、死ぬ時まで「島崎さん」を畏敬して居た。
(中略)
「君はひどく島崎さんに心服して居るけれど、先ではあんまり君の事を知らないようだぜ」
一と頃島崎さんの家へ足繁く出入して居たGが、或る時斯う云って彼を冷かした事がある。
「そりゃあそうかも知れませんよ。僕は島崎さんの前へ出ると、昂奮して口がきけなくなってしまうから。……」
私も嘗て、彼と一緒に島崎さんを訪問したが、彼は恰も恋人の前へ出た生娘のように、始めから終りまで一言も云わずに畏まって居た。成る程あの様子では、いつ迄立っても島崎さんと親しむ事が出来なかったであろう。


 谷崎潤一郎 『亡友』

 大貫晶川については、こちらのサイトに詳しく記されているが、島崎藤村の随筆などの中に大貫の名前が出てきた覚えはないから、果たして本当に 「島崎藤村門下の逸材として注目され」 たのかどうかよくわからない。また、作中の 《私》 は大隅の作品について 「純然たる藤村氏の真似」、「藤村氏のカリカチュウル」 と手厳しく書いている。
 それはともかく、本作には島崎藤村本人が実名で登場し、大隅の人柄について語る場面がある。藤村は大正2年3月に渡仏し、大正5年7月に帰国している。本作発表当時、藤村は洋行帰りの大作家として扱われていたのだろう。もちろん『新生』 発表の前だから、姪とのスキャンダルも知られておらず、藤村はどちらかといえば人格高潔な人物と見られていたのではないだろうか。『亡友』 に登場する藤村もそのような人物として扱われ、大隅が性欲と道徳心のはざまに苦悩する青年として描かれるのと対照的に配置されているのである。
 本作は亡友大隅の人物像が抽象的なため、谷崎の小説としてはちょっと物足りない出来である。藤村が出てくる、というのが取り柄なのかもしれない。