大江健三郎 『死者の奢り』

……僕は昨日の午後、アルコール水槽に保存されている、解剖用死体を処理する仕事のアルバイターを募集している掲示を見るとすぐ、医学部の事務室へ出かけて行った。


 大江健三郎 『死者の奢り』

 『死者の奢り』 は昭和32年に発表された短編小説であり、大江健三郎のデビュー作である。《大学病院で死体を処理するアルバイトを募集している》 という都市伝説めいた噂話が存在するが、その元ネタとなったのがこの小説だといわれているらしい。
 アルコール水槽に雑然と浮かんでいる数十体の死体を、別の水槽に移動させる、という作業の描写が延々と続き、夕方に仕事がほとんど終わったところで、連絡上の手違いがあったことが分り、もう一度、別の場所へ死体を移動する、というストーリーである。
 元々、非現実的な設定であって展開も不条理な作品なのだが、本作にはそれとは別におかしなところがたくさんある。非現実的で不条理な小説というのは、それ以外の部分を現実的に描かないとリアリティーが全くなくなってしまう。ところが、この小説は不条理であるはずのない箇所の描写がでたらめなのだ。いくつか例を挙げよう。

  • 死体を運搬する作業工程が詳細に書かれているが、どう考えても手順がおかしい。作業を指示する 《管理人》 という男は、この道30年のベテランのはずなのだが。
  • 主人公が昼休みに外出する場面で、「柔かな葉をつけた灌木が強く輝く緑色に茂り、その下枝に肩を触れながら僕は歩いた。」 と書かれているが、灌木というのは樹高2m以内の低木(参照) のことであり、「下枝に肩を触れ」 たりするものではない。
  • 「三時近くなると、躰がゴムの作業衣の下で汗ばみ始め、手袋に触れる手の甲がむずがゆかった。」 と書かれている。実際に着てみるとわかるが、ゴムの作業衣は真冬でも30分くらいで汗だくになるものである。それ以前に、昼休みに一度作業衣を脱いでいるのだが、その時点で何ともなかったのか。
  • 作業中、死体の手足は硬直していると書かれているのに、最後の場面ではトラックの荷台に死体を押し込むと 「死者は少し身動きし、足うらを扇形に開いて安定した」 と描写されている。

 悪い点ばかり挙げたが、登場人物の描写については、その薄っぺらさが逆に不気味な効果をあげていると思う。この不気味な路線はしばらく続き、大江は数々の傑作を生み出したのである。


死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

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