横光利一 『微笑』

 太平洋戦争末期、主人公梶の元に青年天才科学者が現れる。青年は 「凄い光線」 で敵艦や飛行機を一撃で倒す秘密兵器を発明、開発しているのだという。

「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初めてでしょう」
「そんなことも云ってました。通った論文も、アインシュタインの相対性原理の間違いを指摘したものだと云ってましたがね」


 横光利一 『微笑』

 俳句を学び栖方(せいほう) という号を持つ青年は、微笑を浮かべた明るい好青年であった。だが、彼の話はあまりにも現実離れしていて怪しげなのだ。しかも、彼は常に憲兵につけ狙われている様子。栖方の話はどこまで真実なのか。また、彼は正気なのか狂っているのか……。
 横光利一は昭和22年12月に病死した。『微笑』 は昭和23年1月に発表された彼の遺作である。
 新潮文庫巻末注解によると、戦時中に敵機を撃墜する破壊光線の研究が行われていたのは事実らしい。本作に書かれた天才科学者は無論フィクションだろう。しかし、僕はこの小説を読み終わるまで、これは SF なのではないかと思っていたのである。なぜなら、戦争末期すなわち昭和19〜20年頃の史実とは異なったエピソードが書かれているからだ。
 一つだけ具体例を挙げる。
 まず、梶と栖方が初めて対面する場面に、回転する扇風機が描かれていて、そのことが話題に上る。年代不明だが、季節は夏である。
 その何日か後、二人が水交社(海軍将校専用の施設)で食事をしている場面で、以下のように書かれている。

……もう海軍力はどこの海面のも全滅している噂の拡がっているときだった。レイテ戦は総敗北、海軍の大本山戦艦大和も撃沈された風説が流れていた。


 横光利一 『微笑』

レイテ沖海戦 - Wikipedia
 レイテ沖海戦が行われたのは昭和19年10月23〜25日のことである。(なお、この海戦で撃沈されたのは戦艦武蔵。大和は無事帰還したが、昭和20年4月7日に鹿児島沖で米航空機の爆撃により沈没している。)戦時中の情報・報道管制下だから、上の引用文も 「風説」 に過ぎないし、特に日本軍の被害状況など不確かな情報しか耳にすることが出来なかっただろうとは考えられる。しかし、レイテ戦よりも後に聞いた話であることは確かだろう。
 これに続く場面は、「秋風がたって九月ちかくなったころ」 の句会。憲兵が周囲で見張り、水上機が空を飛ぶ光景が描かれている。あれ? 戦争が終わってない……!?
 その後、「秋から激しくなった空襲」、疎開終戦と続くのだが、書かれているとおりに読むと、終戦が一年ずれていることになる。これは一体どういうことなのだろうか? (ほかにも怪しげな描写はあるのだが省略。)
 いくつか仮説を考えてみた。

  1. 作者が意図的に架空の歴史を創作した。
    • SF でいうパラレルワールドのようなもの。レイテ戦だけじゃなく小説全体がそういう雰囲気なので、僕はこれじゃないかと思ったのだが。
  2. 作者がレイテ沖海戦の時期を素で間違えた。
    • 勘違いもあり得なくはないが、同時代の成人男性が知らないはずのない常識である。(僕は父からレイテ戦の話を聞いたことがある。)
  3. 雑誌 『人間』 初出時に、GHQ の検閲に合い、原稿を改竄された。
    • 根拠はないのだが、戦後の混乱期のことだから考えられなくもない。
  4. 草稿状態のまま、編集者に原稿が渡ってしまいノーチェックだった。
    • ノーチェックというよりも、遺作になったため、敢えてそのまま掲載した可能性はある。

 というわけで、よくわからないのである。
 それはともかく、戦争と狂気をテーマにした文学作品として優れていると思うし、その当時でなければ書けなかったであろう内容の名作であり、読んでいて面白く感じる小説である。