横光利一 『機械』

 初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。


 横光利一 『機械』

 冒頭にこんなことが書かれているが、どう考えても狂っているのは語り手の 《私》 のほうである。そう解釈するほうが辻褄があう。《私》 が住み込みで働くネームプレート工場の主人について、主人の妻から 「金銭を持つと殆ど必ず途中で落してしまう」 と聞かされるが、いくらなんでもそんな性癖は存在しない。《私》 は騙されているのである。ほかにも、工場の同僚二人とのやりとりは台詞を除くと、ほとんどが 《私》 の思いこみ、誤認、誤解、妄想のたぐいとしか思えないものばかりだ。(再読したら、台詞さえカギカッコで括られたものは一つもなかった。)

全く使い道のない人間というものは誰にも出来かねる箇所だけに不思議に使い道のあるもので、このネームプレート製造所でもいろいろな薬品を使用せねばならぬ仕事の中で私の仕事だけは特に劇薬ばかりで満ちていて、わざわざ使い道のない人間を落し込む穴のように出来上っているのである。この穴へ落ち込むと金属を腐蝕させる塩化鉄で衣類や皮膚がだんだん役に立たなくなり、臭素の刺戟で咽喉を破壊し夜の睡眠がとれなくなるばかりではなく頭脳の組織が変化して来て視力さえも薄れて来る。


 横光利一 『機械』

 《私》 の頭がおかしくなった原因として、工場で用いる劇薬の影響を挙げていて、ひょっとしたらそういうこともあるのかもしれないと思わせるが、実は前述のとおり最初からちょっと頭のねじがゆるんでいたのではないかと思う。最後のほうで、工場の同僚の一人が劇薬を飲んで死ぬのだが、彼を殺したのは自分かもしれない(それすらはっきりしない)と 《私》 は思い悩むのである。
 『機械』 は昭和5(1930)年に発表された短編小説。横光利一といえば 『機械』 といわれるくらいの問題作である。《意識の流れ》*1 と呼ばれる手法を取り入れた実験小説だが、頭のおかしい語り手の "超" 主観的な心理描写を終始貫いている点が、本作の特徴であり面白さでもある。
 筒井康隆の短編 『中隊長』*2 に文体や雰囲気が似ているような気がする。

 自分はいつも馬に乗る時さかさにまたがってしまう。鐙(あぶみ)にどちらの足を踏みかければよいか直前のためらいがあり、そのためらいのために尚さらわからなくなり結局は逆の足を踏みかけてしまう。……(中略)……ある日逆の方向から乗らねばならない時があったのだ。あとは以前にも増して混乱がひどくああ自分は馬に乗らねばならないのだ、鐙に足を踏みかけねばならず原則としては左足を鐙にかければよかった筈だがそれは本能にさからうわけで、いや、さからわなかったのかな、いや違う、本能にさからったために逆の方向から乗った時にはみごとにさかさにまたがってしまったのではなかったか、……


 筒井康隆 『中隊長』

 と思ったら、最近、筒井が横光利一について書いているコラムを見つけたので、リンクしておく。
http://book.asahi.com/hyoryu/TKY200910270250.html


機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

*1:意識の流れ - Wikipedia参照

*2:昭和53年発表。新潮文庫 『エロチック街道』 収録。