横光利一 『蠅』

 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩(うまや)の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫(しばら)くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上った。


 横光利一 『蠅』 一

 息子から危篤の電報を受け取った農婦、駆け落ちの男女、小さな男の子を連れた母親、饒舌な田舎紳士。彼らは街へ向う馬車の出発を待っている。だが、猫背の馭者は饅頭屋の店先で将棋に夢中である。十時になると、馭者は6人の客を乗せ、馬車を出発させる。そして、馬の脊にとまっていた蠅は、車体の屋根にとまり、馬車と一緒に揺れていく。
 だが、馭者は居眠りを始め、馬車は乗客を載せたまま、崖から墜落してしまう。生き残ったのは蠅一匹のみである。

……眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。


 横光利一 『蠅』 十

 『蠅』 は大正12年に発表された短編小説。全てが蠅の視点で描かれている、という所が斬新な小品である。ニヒリズムスラップスティック、様々な解釈ができようが、登場人物それぞれが抱えた小さな物語を全て相対化してしまう破壊力をもった傑作だと思う。


日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)