島崎藤村 『ふるさと』


 『ふるさと』 は 『幼きものに 海のみやげ』 に続く島崎藤村の童話集(大正9年発表)。本書を著した当時の藤村一家の事情が、序文に書かれているので引用してみたい。

 早いものですね。あの本*1を作った時から、三年の月日がたちます。太郎は十六歳、次郎は十四歳にもなります。父さんの家には、今、太郎に、次郎に、末子の三人がいます。末子は母さんが亡くなると間もなく常陸(ひたち)のほうの乳母(うば)の家に預けられて、七年もその乳母のところにいましたが、今では父さんの家のほうに帰ってきています。三郎はもう長いこと信州木曾(きそ)のおじさんの家*2に養われていまして、兄の太郎や次郎のところへ時々お手紙なぞをよこすようになりました。三郎はことし十三歳、末子がもう十一歳にもなりますよ。
(中略)
 人はいくつになっても子供の時分に食べた物の味を忘れないように、自分の生まれた土地のことを忘れないものです。たとえその土地が、どんな山の中でありましても。そこでこんど、父さんは自分のちいさい時分のことや、その子供の時分に遊び回った山や林のお話を一冊の小さな本に作ろうと思いたちました。……


 島崎藤村 『ふるさと』 初版『ふるさと』のはじめに

 妻の死、姪との情事、フランス滞在という大きな出来事のかげに犠牲になったのは、遺された4人の子供たちである。フランスから帰国した藤村は、少しずつ家庭を取り戻そうとしたが、4人の子供が全員揃うまでには十年の歳月が必要であった。したがって、本書をはじめとする童話集は、藤村の家族再建の途上で書かれた作品なのである。
 太郎・次郎・三郎・末子という名前は、もとより実名ではない。藤村はのちに彼らが登場する小説をいくつも書いたが、『ふるさと』 の序文はすでに小説の中の出来事として書かれているように思われる。


 いきなり重たい話になってしまったが、本書の本文である童話は決して暗い話ではない。作者の子供時代の木曾の日常生活、遊びなどが生き生きと描写されている。人間と動植物が会話する部分以外は、木曾の生活をそのまま描いているのだろう。もっとも、短い章立てで断片的な情景描写に終始するものが多く、童話らしいストーリー展開はほとんどないといって良い。最後の章では、主人公の少年が東京へ遊学のため旅立つ場面で終わっている。藤村満9歳のときのことである。
 挿絵は前作に続いて、竹久夢二
 藤村童話は全4冊。一般書店では扱っていないが、馬籠の藤村記念館で入手可能である。

*1:『幼きものに』のこと。

*2:木曾福島にある藤村の姉高瀬園の嫁ぎ先の家。園は大正9年に死去。おじさんというのは園の養子である。