明日のしたく

 仕事から帰ってくると、まず和室へあがってスーツを脱ぎ、Tシャツと短パンに着替える。脱いだワイシャツや下着をまとめ、明朝着る服と下着を揃えておく。一服するのはそれからである。
 ふと足元を見ると、猫のケイがズボンのベルトを相手に何かやっている。革製のベルトをすみからすみまで舐めたり齧ったりしているのだ。ケイの噛み方は 《あま噛み》 である。指を噛まれても痛くないし、ベルトにだって歯形をつけたりはしない。こいつ、革フェチなのか? と思ってみたのだが、どうやら匂いをつけているらしい。自分の匂いをすりつけるのは、「これは自分の物・場所である」 と主張する行動である。ケイはベルトに頬ずりを始めた。

歌舞伎町で浮気してきた - 蟹亭奇譚
 ケイがこのような行動をとり始めたのは、1か月ほど前に、僕が歌舞伎町で浮気をして以来のことだ。猫の体臭は人間には感じられない。(猫を飼っている家が匂うのは、食物や排泄物の匂いである。)しかし、よその女の子の匂いをつけて帰ってきた飼い主のことが、よほど気に入らなかったのだろう。我が家の猫は、飼い主に自分たちの匂いをつけるようになってきたのである。猫の匂いがつくのはもっぱら衣類であり、服などは洗濯すれば匂いは消えてしまう。だが、ベルトについた匂いはなかなか消えないのだ。そういえば、もう一匹のミイは、玄関で靴をぺろぺろやっていたような気がする。
 明日の朝、僕はベルトをしめて、仕事に出かける。周囲の人間は気付かないが、もし近くに猫がいたら、すぐにわかってしまうような匂いなのかもしれない。僕はあれ以来、猫カフェには行っていないのだけど、このベルトをしめて行ったら、歌舞伎町の女の子たちにはモテないのではないだろうか。あらかじめケイは周到に準備を整えているわけである。

「ケイ」
 階下で妻が猫を呼んでいる。
「ニャー(なあに?)」
 ケイは答えるが、体はベルトにかかりっきりだ。
「ケイ、ごはんよ。降りてらっしゃい」
「ニャー(今、手が離せないの)」
 猫もけっこう忙しい身分なのである。
 やがて、僕たちの作業が終わり、一緒に階段を下りていくと、妻がこちらを見ていた。
「何やってたのよ。ケイ、声は聞こえるけど、全然来やしないじゃないの」
 猫に向けての質問に、僕は答えた。
「いっしょに、明日のしたくをしていたんだよ」
 この二人は何を言ってるんだろう? と首を傾げる妻の前で、僕とケイは顔を見合わせた。