外科手術失敗

 太平洋戦争末期。F市の大学病院では学部長が急死し、教授たちの間では後継の地位を争う政治的な駆け引きが始まっていた。
 この病院で肺結核患者の手術が行われる。執刀医は 《おやじ》 こと橋本教授。患者は前学部長の親類の若い夫人である。
 いずれは必要となる手術だが、そんなに急ぐ必要はなかった。患者の体調はベスト・コンディションだった。医局の勝呂(すぐろ)助手は、「このオペは自分がやっても成功する」 と思っていた。

「死にました……」
 脈を計っていた看護婦長が力なく呟いた。
 彼女が手を離すと、柘榴(ざくろ)のように切り裂かれた死体(ライヘ)の血まみれの腕が、だらあんと手術台の縁にあたった。おやじは茫然としたように立っていた。だれも口をだす者はいなかった。無影燈の光を反射させながら床を流れる水だけが微(かす)かなかるい音をたてている。
「先生」浅井助手が呟いた。「先生」
 おやじは相手をみあげたが、その顔はうつろだった。
(中略)
 勝呂は、膝の力が全く抜けてしまったように床にしゃがみこんだ。頭の奥で何か硝子にブリキの鑵(かん)をぶつけたような音がたえず聞えてくる。彼は嘔(は)き気を感じ、手でしきりに眼をこすり、額の汗を拭った。
(中略)
「患者の体は病室に運ぶ。家族には手術の経過を一切、言わぬこと」
 浅井助手はかすれた声でそう言うと、一同を見まわした。その一同は怯えたように背を壁にむけてたっていた。
「病室に帰ると、すぐリンゲルをうつ。その他、術後の手当はみんなする。患者は死んではいない。明朝、死ぬことになるんだ」


 遠藤周作 『海と毒薬』 第一章 海と毒薬 III

 読んでいて、頭がくらくらする。体調の良いときに読まないと、最後までもたないのではないかと思う。
 手術の目的(権力抗争)から、手術中の経過、後始末に至るまで、全てが最悪なのである。、だが、この顛末は間もなく病院中に知れ渡る。この後、彼らは汚名を返上するため、さらなる非人間的な行為へ手を染めて行く。