遠藤周作 『海と毒薬』

 《私》 と近所のガソリン・スタンドの主人(マスター)が銭湯で体を洗っている。主人の右腕のつけ根には火傷の痕がある。戦時中に中国人の迫撃砲に撃たれたのだと、彼は言う。

 彼は頭にシャボンをつけて、こちらに顔をむけた。はじめて私の白い痩せた胸や細い腕をみたように、ふしぎそうな眼つきをした。
「痩せているな、あんたは。その腕じゃ人間を突き刺せないね。兵隊では落第だ。俺なぞ」と言いかけて彼は口を噤(つぐ)んだ。「……もっとも俺だけじゃないがなあ。シナに行った連中は大てい一人や二人は殺(や)ってるよ。俺んとこの近くの洋服屋――知っているだろう、――あそこも南京(ナンキン)で大分、あばれたらしいぜ。奴は憲兵だったからな」
 どこかでラジオの流行歌が聞えてきた。あれは美空ひばりの声である。女湯ではまた子供が泣いている。


 遠藤周作 『海と毒薬』 第一章 海と毒薬

 銭湯の日常的な光景と残虐な会話。戦争と平和を対比させた、というよりも、平和な日常の中に、戦争の生々しい体験と記憶が同時に存在している、そういう時代の一こまを描いているのだろう。(本作が発表されたのは昭和32年。)
 それにしても、暑苦しい小説である。ごみごみとして埃っぽく、常に不快感がある。すごい始まり方だと思った。