島崎藤村 「うさぎの歌」

 太郎も、次郎も、母さんを覚えていますか。
「母さんは、どんな人だっけかなあ。」
と太郎が首をかしげました。太郎は母さんのことを、はっきりとは思い出せないようでした。
「ぼくも、よく覚えていない。」
と次郎も申しました。
 お前たちには、太郎の上にまだ姉さんが三人ありました。姉さんたちは、次郎がまだ生まれない前に、みなまだちいさい時分になくなりました。フランスのほうのお話をするついでに、ひとつお前たちの姉さんのことを話しましょう。フランスのほうのちいさな娘が髪にリボンのついたお人形さんを抱いで、窓の下で歌っているのを見ると、父さんはお前たちの姉さんを目の前に見る心持ちがしましたよ。姉さんたちもお人形さんが好きでしたからね。まるでお友達のようにして、抱いたり、おぶったりしましたからね。それから、姉さんたちは歌が大好きで、母さんからいろいろな歌を教わりましたからね。
 「うさぎ、うさぎ、
  そなたの耳は、
  どうしてそう長いぞ。
  おらが母の
  若い時の名物で、
  ささの葉ッ子のんだれば、
  それで、耳が長いぞ。」
 これはお前たちの姉さんが母さんから教わった歌です。姉さんたちがお人形さんを抱きながら、よく歌った歌です。あの声はまだ父さんの耳に残っています。母さんはまだ、ごくちいさい時分に、南部という地方から来た下女にそのうさぎの歌を教わりましたとさ。


 島崎藤村 『幼きものに 海のみやげ』 より 「うさぎの歌」

 藤村の娘が 「うさぎの歌」 を歌うエピソードは、長編 『家 (上巻)』 の最後のところにも書かれている。同じ場面を、回想という形でこんな風に童話の中に書いたわけだが、こういうのはぐっとくる。家族の物語がこうしてちゃんとつながっているのだ。