瀬戸内海の大怪獣

「事務長さん、金ン比羅さんのお山はどれですかいな」
「あれで厶(ござ)ります」 先刻蓄音器を持って来た金筋を腕に巻いた男が指さして答えた。
「あれが、その、象の頭(かしら)に似とると云うので、それで象頭山(ぞうずさん)、金ン比羅、大権現、ですかいな、そう申すのじゃそうに厶んす。……」


 志賀直哉 『暗夜行路 (前篇)』 第二 四

 時任謙作は東京を離れ、しばらく尾道に住んでいる。彼は船に乗り讃岐を旅しているところだ。

……彼は今事務長が云った山よりもその前の山がもっと象の頭に似ていると思った。そして彼はそれだけの頭を出して、大地へ埋まっている大きな象が、全身で立ち上った場合を空想したりした。それから起る人間の騒ぎ、人間がその為めに滅ぼし尽されるか、人間がそれを倒すかという騒ぎ、世界中の軍人、政治家、学者が、智慧をしぼる。大砲、地雷、そういうものは象皮病という位で、その象では皮膚の厚みが一町位ある為めに用をなさない。食糧攻めにするには朝めしと昼めしの間が五十年なのでどうする事も出来ない。賢い人間は怒らせなければ悪い事はしないだろうと云う。印度の或る宗旨の人々は神だと云う。然し全体の人間はどうかして殺そうと様々な詭計を弄する。到頭象は怒り出す。……彼は何時か自分がその象になって、人間との戦争で一人亢奮した。
 都会で一つ足踏みをすると一時に五万人がつぶされる。大砲、地雷、毒瓦斯(ガス)、飛行機、飛行船、そういうあらゆる人智をつくした武器で攻め寄せられる。然し彼が鼻で一つ吹けば飛行機は蚊よりも脆く落ち、ツェッペリンは風船玉のように飛んで行って了(しま)う。彼が鼻へ吸い込んだ水を吐けば洪水になり、海に一度入って駆上(かけあが)って来ると、それが大きな津波になる。…………
「御退屈で厶りました。もうあれが多度津(たどつ)で厶ります。十分で着きますので、御支度を……」こう、事務長が知らせに来た。彼は退屈どころではなかったのである。

 謙作は日記にも、人類滅亡がどうのこうのと書いたりしているのだが、この空想は極端だ。志賀先生、ノリノリになって書いている。浮き沈みの激しい主人公だが、読者だって退屈どころではないのである。