夫婦の時間

 三吉夫婦は三人の娘をうしなった後、男の子を三人授かっている。親戚中は相変わらずごたごたしているが、家の中は静かである。

「どうだ――」と三吉はお雪に、「この酒は、欧羅巴(ヨーロッパ)の南で産(でき)る葡萄酒だというが――非常に口あたりが好いぜ。女でも飲める。お前も一つ御相伴(おしょうばん)しないか」
「強いんじゃ有りませんか」とお雪は子供を膝に乗せて言った。
 雨戸の外では、蕭々(しとしと)降りそそぐ音が聞える。雨は霙(みぞれ)に変ったらしい、お雪は寒そうに震えて左の手で乳呑児を抱き擁(かか)えながら、右の手に小さなコップを取上げた。酒は燈火(あかり)に映って、熟した果実(くだもの)よりも美しく見えた。
「オオ、強い」
 とお雪は無邪気に言ってみて、幾分か苦味のある酒を甘(うま)そうに口に含んだ。
「すこし頂いたら、もう私はこんなに紅く成っちゃった」
 と復たお雪が快活な調子で言って、熱(ほと)って来た頬を手で押えた。三吉は静かに妻を見た。


 島崎藤村 『家 (下巻)』 八

 何の飾りもない文章だが、これこそが名文である。こういう場面の描写には、ぐっとくるものがある。
 夫婦みずいらずで酒を飲むような、静かな時間は大切にしたいものである。しかし、三吉夫婦に残された時間は長くはないのだった。