お俊登場

 三吉夫婦の三人の娘たちが相次いで病没する。その悲しみもさめやらぬ頃、三吉の妻お雪の祖母逝去の報が届く。お雪は四番目の男の子を連れ、生家の函館へ旅立ち、ひと夏をそこで過ごす。

 お雪は二人の話を聞きながら、白足袋を穿いた。「私が留守に成ったら、父さんも困るでしょうから、お俊ちゃんにでも来ていて頂くつもりです」と彼女は言った。


 島崎藤村 『家 (下巻)』 一

 お俊は女学生。三吉の長兄の娘である。また、次兄の娘、お延も以前から住み込んでいる。叔父と姪――家族のいなくなった三十代なかばの男と、二人の少女たちの奇天烈な夏休みが始まる。

「私は涅槃(ねはん)という言葉が大好よ」とお俊は冷そうに氷を噛んで言った。
「あら、いやだ」とお延はコップの中を掻廻(かきまわ)して、「それじゃ、お俊姉さまのことを、これから涅槃と……」
「涅槃ッて、何だか音(おん)からして好いわ」

「叔父さん――何故(なぜ)私が墓場が好きですか、それを御話しましょうか」

「しかし、私が今まで遭遇(であ)って来たことの中で、唯(たった)一つだけ叔父さんに話しましょうか」
 こんなことを言出した。
 お俊は、附添(つけた)して、母より外(ほか)にこの事件を知るものがないと言った。その口振で、三吉には、親戚の間に隠れた男女(おとこおんな)の関係ということだけ読めた。誰がこの娘に言い寄ろうとしたか、そんな心当りは少しも無かった。
 (中略)
「叔父さんは……正太兄さんをどういう人だとお思いなすって……兄さんは叔父さんが信じていらッしゃるような人でしょうか」
 三吉は姪の顔を熟視(みまも)った。「――お前の言うのは正太さん*1のことかい」


 島崎藤村 『家 (下巻)』 二

 仲の良い二人の姪は快活である。よく働き、炊事洗濯も楽しそうに取り組んでいる。特に都会育ちのお俊は、三吉の白髪を抜いてみたり、足の裏を踏んでみたり、耳掃除をしてみたり。あくまでも明るい調子で描かれた場面だが、何かがおかしい。

……不思議な力は、不図(ふと)、姪の手を執らせた。それを彼はどうすることも出来なかった。「こんな風にして歩いちゃ可笑しいだろうか」と彼が串談(じょうだん)のように言うと、お俊は何処までも頼りにするという風で、「叔父さんのことですもの」と平素(いつも)の調子で答えた。

 こんなことが何日も続いたある日、お俊が無断で外泊する。三吉は 「俊は最早帰って来ないんじゃないか」 と心配し、ひとり悶々とする。

 翌朝、お俊は帰って来た。彼女は別に変った様子も見えなかった。
「どうしたい」
 と叔父はお延の居るところで聞いた。彼は心の中で、よく帰って来てくれたと思った。
「なんだか急に父親(おとっ)さんや母親(おっか)さんの顔が見たく成ったもんですから……突然(だしぬけ)に家へ帰ったら、皆な驚いちゃって……」
 こう答えるお俊の手を、お延は娘らしく握った。お俊は皆なに心配させて気の毒だったという眼付をした。
 漸く三吉も力を得た。日頃義理ある叔父と思えばこそ、こうして働きに来てくれると、お俊の心をあわれにも思った。
 その日から、三吉はなるべく姪を避けようとした。避けようとすればするほど、余計に巻込まれ、蹂躙(ふみにじ)られて行くような気もした。彼は最早、苦痛なしに姪の眼を見ることが出来なかった。どうかすると、若い女の髪が蒸されるとも、身体(からだ)が燃えるともつかないような、今まで気のつかなかった、極(ご)く極く幽(かす)かな臭気(におい)が、彼の鼻の先へ匂って来る。それを嗅ぐと、我知らず罪もないものの方へ引寄せられるような心地がした。この勢で押進んで行ったら、自分は畢竟(つまり)どうなる……と彼は思って見た。
「俺は、もう逃げるより他に仕方が無い」
 到頭、三吉はこんな狂人(きちがい)じみた声を出すように成った。


 島崎藤村 『家 (下巻)』 三

 もはや拷問である。夜な夜な少女の手を引いて散歩などしている時点で、田山花袋 『蒲団』 を超えている。(悪い意味で。)
 一生に一度くらいはこういう目にあっても良いかもしれないが、二度とは御免だ。三吉は猫を飼えばよかったのに、と思う。

*1:引用者注 - 正太は三吉の姉お種の長男。既婚者である。