三吉の結婚

 東京に戻った三吉は家族の言いなりに結婚する。相手は金持ちの商家の娘お雪である。田舎で教師をしている三吉はお雪とともに、そこで新しい家庭を築こうとしている。
 ところがある日、彼は新妻の書きかけの恋文を見つけてしまう。もう別れたほうが良いのか――悩んだ三吉は、かつての恩師である校長先生のもとへ相談に行く。

 師はやがて昔の弟子を花畠に近い静かな書斎の方へ導いた。最早入歯をする程の年ではあったが、気象の壮(さか)んなことは壮年(わかもの)にも劣らなかった。長い立派な髯は余程白く成りかけていた。この阿爺(おとっ)さんとも言いたいような、親しげな人の顔を眺めて、三吉は意見を聞いてみようとした。他(ひと)に相談すべき事柄では無いとも思ったが、この先生だけには簡単に話して、どう自分の離縁に就(つい)て考えるかを尋ねた。先生は三吉の為に媒妁の労を執(と)ってくれた大島先生のそのまた先生でもある。
 雅致のある書斎の壁には、先生が若い時の肖像と、一番最初の細君の肖像とが、額にして並べて掛けてあった。
「そんなことは駄目です」と先生は昔の弟子の話を聴取(ききと)った後で言った。「我輩のことを考えてみ給え――我輩なぞは、君、三度も家内を貰った……最初の結婚……そういう若い時の記憶は、最早二度とは得られないね。どうしても一番最初に貰った家内が一番良いような気がするね。それを失うほど人間として不幸なことは無い。これはまあ極く正直な御話なんです……」


 島崎藤村 『家 (上巻)』 五

 これを書いた時点で作者が全く予想しえなかった事が、後に起こっている。お雪のモデルである藤村の妻が、上巻(明治43年5月完結)を書き終えた年の8月に亡くなったのである。