さらば署長

 5年間在任した署長の転任が決まった。市民は転任反対、留任嘆願の示威運動を起こす。新聞はそれを派手に書き立てる。しかし、署長は彼らに背を向けるかのように、私の出世を邪魔するな、と発言し、市民は失望する。

……そこには町の者たちが遠巻きに見ているのに、声をかける者がないばかりか、寧ろ反感のある眼つき、冷たい表情、嘲るような薄笑いを示している、なんともばつの悪い空気なのですから、――単純な人たちよ。が勿論それは彼等が悪いのではありませんし、署長が彼等を愛するのもその単純さにあったといってよいでしょう。


 山本周五郎 『寝ぼけ署長』 より 「最後の挨拶」

 語り手(署長の側近らしい)は、市民が署長を愛したのではなく、署長が彼等を愛したのだと独白する。この考えが本作を読み解く鍵となっているのだ。
 一つの事件を解決するため、しばらく転任を延期した署長は、最後にその思いを語る。

「おれにはおれで、時間が必要だったのさ」署長はこう云って、また窓外へ眼を移しました、「――留任運動の、あの気違いめいた大騒ぎ、ああいうから騒ぎと、おれがどんなに縁遠い人間か君は知っているだろう、……おれはあの市(まち)が好きだ、静かな、人情に篤い、純朴な、あの市が大好きだ、色いろな人たちと近づきになり、短い期間だったが、一緒にこのむずかしい人生を生きた、別れるなら静かに別れたい、……なんとしてもあの気違い沙汰で送られたくはなかった、此処へ来たときのように、誰にも知られずに、そっとおれは別れてゆきたいんだ、そっと、……それだけの時間がおれには必要だったんだよ」

 署長は一人しずかに町を去る。日本一地味な英雄の物語はこうして幕を閉じるのである。
 『寝ぼけ署長』 は昭和21〜23年に発表された、山本周五郎の現代小説。探偵小説の体裁をとっているが、犯人をわざと逃がしてやったり、非合法な手段でやくざ者を追い払ったり、ずいぶん目茶苦茶なストーリーである。しかし、のちの社会派推理小説が失ってしまった、人間の温かさを旨く扱った名作だと思う。