人はなんによって生くるか

 《私》 が土堤で釣りをしていると、隣に男がやってきて釣り始める。

……私が竿をあげようとするまえに、脇で釣りだした人が私に呼びかけた。
「人はなんによって生くるか」
 私はそちらへ振り向いた。
「人はなんによって生くるか」
 (中略)
 その男は現場監督が怠けている労働者を見るような眼で私のことを見、そうして、こんどは一と言ずつ句切って、同じことをはっきりと云った。――このあとを書くと人は信じなくなるだろうが、事実を云うと、男は右手の拳を私のほうへぐいと突き出したのである。私は危険を感じて身を反らし、男は突き出した拳を上下に揺すった。これを見ろ、といったような手つきなので、その拳を注意して見ると、握った中指と人さし指とのあいだから、拇指(おやゆび)の頭が覗いているのであった。


 山本周五郎青べか物語』 人は何によって生くるか

 この男、浦粕の町では皆から 《兵曹長》 と呼ばれている。だが、海軍に行ったことはない。
 七年前、彼がどこかへ出稼ぎに行っている間、妻と四人の子が急死した。赤痢らしい。

「彼はたいへんな子煩悩でしてね」と高品さんが云った、「帰ってきてそれを聞くと、いっぺんに気がぬけたようになって、半月ばかりぼんやりしていました」

 その後、彼は町役場へでかけて行って、「自分は海軍兵曹長で、年金と恩給が来ることになっているが、まだその通達は来ておらんか」と言い始めたのだという。彼が 「人はなんによって生くるか」 と云い出したのも、それからのことである。

 答えのない問い、というのがある。答えを見つけたと思っても、それを口にしたら全部うそになってしまうような問いがある。トルストイの翻訳が気に入らないという id:hebakudan にはぜひ読んでいただきたいと思う。

※もう読み終わっているのですが、便宜上、[読書中] に分類しておきます。