「青べか」を買った話

 『青べか物語』 は昭和35〜36年に発表された長編小説。
 昭和の初め頃、東京湾に面した小さな漁師町、浦粕(うらかす)に住んだ若手作家の 《私》 は、奇妙な老人に声をかけられ、おんぼろな小舟をまんまと売りつけられてしまう。浦粕というのは、もちろん浦安がモデルになっている。
 青べかとは何か、という話は以前、青べかの話 - 蟹亭奇譚に書いたので、参照されたい。

「おめえ舟買わねえか」と老人は私と並んで歩きながら喚いた、「タバコを忘れて来ちまっただが、おめえさん持ってねえだかい」
 私はタバコを渡し、マッチを渡した。老人はタバコを一本抜いて口に咥え、風をよけながら巧みに火をつけると、タバコとマッチの箱をふところへしまった。
「いい舟があんだが」と老人は二百メートルも向こうにあるひねこびた松ノ木にでも話しかけるような、大きな声でどなりたてた、「いい舟で値段も安いもんだが、買わねえかね」
 私が答えると、老人は初めからその答えを予期していたように、なんの反応もあらわさず、吸っていたタバコを地面でもみ消し、残りを耳に挟んでから、手洟(てばな)をかんだ。
「おめえ」暫く歩いたのち、老人がひとなみな声で云った、「この浦粕へなにょうしに来ただい」
 私は考えてから答えた。
「ふうん」と老人は首を振り、ついで例の高ごえで喚いた、「おんだらにゃあよくわかんねえだが、職はあるだかい」
 私が答えると、老人はちょっと考えた。
「つまり失業者だな」と老人は喚いた、「嫁を貰う気はねえだかい」


 山本周五郎青べか物語』 「青べか」を買った話

 老人と 《私》 の会話場面だが、《私》 のセリフが一言も書かれていないことに注目したい。《私》 は決して黙っているわけではなく、セリフのみが全て省略されているのである。それなのに、それなのに、私がどんなことを話し、老人に何を伝えたのか、読者にはだいたい分かるようになっているのだ。
 言語学者佐藤信夫は 『レトリック認識』(1981年刊・講談社学芸文庫)の中で、この小説の上の箇所を引用し、これを 《黙説》 と呼ばれるレトリック手法であると分析している。

 言わなくてもわかることは言うにおよばない、という考えかたがある。その態度をある程度意図的に徹底させると、一種の《黙説》表現が成立する。


 佐藤信夫 『レトリック認識』 第1章 黙説あるいは中断

 それにしても、ここまで徹底してセリフを省略し、それでいて意味のとおる文章にするのは、ほとんど神業に近いテクニックに違いない。
 また続く文章の中で、佐藤はこの場面の魅力について、次のようにあらわしている。

 浦粕へ何をしにきたのか、職はあるのか……とつづく問いに、「私」がどう答えたかは、私たちにとって、ちょっと愉快なクイズに近い。私たちはこの文章につられて、たちまちその場面に参加してしまう。


 佐藤信夫 『レトリック認識』 第1章 黙説あるいは中断

 『青べか物語』 は冒頭の近くから、いきなりこんな不思議な展開の小説なのだ。しかも、《私》 の 《黙説》 はこの後、数十ページにわたって続くのである。
 では、《私》 が初めてセリフを聞かせる話し相手は誰だったのか? それは続きを読んでのお楽しみである。