堺港事件

 慶応四年二月、泉州、堺港で水底の測量を行っていたフランス水兵を、土佐の兵が狙撃。暴動となった。堺港事件である。

「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、仏蘭西側の被害者は、即死四人、手負い七人、行方知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます」
「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから」
 東久世家の執事と通禧(みちとみ)とは、こんな言葉をかわした。
「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください」
 と通禧は言い添えた。
 妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。
「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣(ふかおやすおみ)も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引(くじび)きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していた仏蘭西の士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家(こうがいか)の寄集りで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷(まか)りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました」
 この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。


 島崎藤村 『夜明け前 第二部』 第二章 三

 この事件については、森鴎外が 『堺事件』 という作品を著している。
図書カード:堺事件
 鴎外がシリアスにドラマチックに描いたのと対照的に、藤村の筆致はほとんどドタバタ喜劇のようだ。それにしても、日本側の新政府を代表して外交の実務にあたる東久世通禧という男、次から次へとひどい目にあう。藤村先生、意地悪すぎである。