和田峠の戦

 『夜明け前 第一部』 は、第九章の後半から突然様子が変わる。それまでの登場人物の視点に寄り添った描写ではなく、客観的な視点から徹底的に 《戦争》 を描きはじめるのだ。
 以下の引用は、和田峠の戦の場面から。天狗党と名乗る水戸浪士による千名を超える軍勢と、その進軍を阻もうと迎え撃つ松本・諏訪藩の戦いである。一方は百戦錬磨の反乱軍。他方は幕府の命により嫌々駆り出された、実戦経験のない者たちだ。最初から勢いが違っているわけだが、それでも両軍ともよく戦っている。

 その日の戦闘は未の刻から始まって、日没に近いころに及んだが、敵味方の大小砲の打ち合いでまだ勝負はつかなかった。まぶしい夕日の反射を真面(まとも)に受けて、鉄砲のねらいを定めるだけにも浪士側は不利の位置に立つようになった。それを見て一策を案じたのは参謀の山国兵部だ。彼は道案内者の言葉で探り知っていた地理を考え、右手の山の上へ百目砲を引き上げさせ、そちらの方に諏訪勢の注意を奪って置いて、五、六十人ばかりの一隊を深沢山の峰に回らせた。この一隊は左手の河を渡って、松本勢の陣地を側面から攻撃しうるような山の上の位置に出た。この奇計は松本方ばかりでなく諏訪方の不意をもついた。日はすでに山に入って松本勢も戦い疲れた。その時浪士の一人が山の上から放った銃丸は松本勢を指揮する大将に命中した。混乱はまずそこに起こった。勢いに乗じた浪士の一隊は小銃を連発しながら、直下の敵陣をめがけて山から乱れ降った。


 島崎藤村 『夜明け前 第一部』 第十章 一

 重厚な文章だが、よく読めば非常に臨場感スピード感にあふれていることがお分かりいただけるだろうか。こんな場面が数十ページも続くのだ。大興奮である。
 結局、頼みにしていた江戸幕府の援軍は到着せず、松本・諏訪藩は敗れ、水戸浪士はさらに西へ向かう。西には木曾谷が待ち受けている。木曾・馬籠宿で、青山半蔵は浪士をどうやって迎えるのか。ますます目が離せない展開である。

http://homepage3.nifty.com/numa/historio/tengu-to.html
天狗党の乱 - Wikipedia
 天狗党は厳寒の加賀で投降し、353名が斬首となったという。
 一党の軍師、山国兵部(やまぐにひょうぶ)は七十歳を超える年齢だった。彼の辞世の句。

ゆく先は冥土の鬼とひと勝負

 まさに、怪人である。