はじめてのシャボン

…………おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜土産を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ取り出して来て見せた。
「これだよ。これはお洗濯する時に使うものだそうなが、使い方はこれをくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田の商人が土産に置いて行ったよ。」
 石鹸という言葉もまだなかったほどの時だ。くれる飯田の商人も、もらう妻籠のおばあさんも、シャボンという名さえ知らなかった。おばあさんが紙の包みをあけて見せたものは、異国の花の形にできていて、薄桃色と白とある。
「御覧、よい香気(におい)だこと。」
 とおばあさんに言われて、お民は目を細くしたが、第一その香気に驚かされた。
「お粂(くめ)、お前もかいでごらん。」
 お民がその白い方を女の子の鼻の先へ持って行くと、お粂はそれを奪い取るようにして、いきなり自分の口のところへ持って行こうとした。
「これは食べるものじゃないよ。」とお民はあわてて、娘の手を放させた。「まあ、この子は、お菓子と間違えてさ。」
(中略)
「これはどうして使うものだろうねえ。」とおばあさんはまたお民に言って見せた。「なんでも水に溶かすという話を聞いたから、わたしは一つ煮て見ましたよ。これが、お前、ぐるぐる鍋の中で回って、そのうちに溶けてしまったよ。棒でかき回して見たら、すっかり泡になってさ。なんだかわたしは気味が悪くなって、鍋ぐるみ土の中へ埋めさせましたよ。ひょっとすると、これはお洗濯するものじゃないかもしれないね。」


 島崎藤村 『夜明け前 第一部』 第六章 二

 こういう微笑ましいエピソードが次から次へと出てくるのが、この小説の面白さの一つである。作者もノッている。
 また、異文化との遭遇をこのように庶民の視点から語るのが、藤村の良さだと思う。