これが江戸か

 やがて半蔵は佐吉を呼んだ。翌朝出かけられるばかりに旅の荷物をまとめさせた。町へは鰯を売りに来た、蟹を売りに来たと言って、物売りの声がするたびにきき耳を立てるのも佐吉だ。佐吉は、山下町の方の平田家まで供をしたおりのことを言い出して、主人と二人で帰りの昼じたくにある小料理屋へ立ち寄ろうとしたことを寿平次に話した末に、そこの下足番の客を呼ぶ声が高い調子であるには驚かされたと笑った。
「へい、いらっしゃい。」
 と佐吉は木訥な調子で、その口調をまねて見せた。
「あのへい、いらっしゃいには、おれも弱った。そこへ立ちすくんでしまったに」
 とまた佐吉は笑った。
「佐吉、江戸にもお別れだ。今夜は一緒に飯でもやれ」
 と半蔵は言って、三人して宿屋の台所に集まった。夕飯の膳が出た。佐吉がそこへかしこまったところは、馬籠の本陣の囲炉裏ばたで、どんどん焚火をしながら主従一同食事する時と少しも変わらない。十一屋では膳部も質素なものであるが、江戸にもお別れだという客の好みとあって、その晩にかぎり刺身もついた。木曾の山の中のことにして見たら、深い森林に住む野鳥を捕え、熊、鹿、猪などの野獣の肉を食い、谷間の土に巣をかける地蜂の子を賞美し、肴と言えば塩辛いさんまか、鰯か、一年に一度の塩鰤が膳につくのは年取りの祝いの時ぐらいにきまったものである。それに比べると、ここにある鮪の刺身の新鮮な紅(あか)さはどうだ。その皿に刺身のツマとして添えてあるのも、繊細をきわめたものばかりだ。細い緑色の海髪(うご)。小さな茎のままの紫蘇の実。黄菊。一つまみの大根おろしの上に青く置いたような山葵。
「こう三人そろったところは、どうしても山の中から出て来た野蛮人ですね。」
 赤い襟を見せた給仕の女中を前に置いて、寿平次はそんなことを言い出した。


 島崎藤村 『夜明け前 第一部』 第三章 一

 半蔵はふとしたきっかけから、江戸へ行くことになる。旅の道連れは、義兄の寿平次に下男の佐吉である。
 三人は十一日間をかけて、木曾の山中から江戸へとたどり着く。初めて見る都会の風物はすべてが物珍しく、大きなカルチャーショックを受ける。
 上の引用箇所で、「今夜は一緒に飯でもやれ」 というのは、佐吉が下男だからである。旅の道連れであっても主従関係ははっきりしていて、ふだんは食べる物も、また食事をする部屋すらも、主たちとは別々なのだ。
 それにしても、ここに書かれた刺身の旨そうなこと。