松雲和尚の帰還

 馬籠の村にある万福寺に、松雲(しょううん)和尚が帰ってくる。彼は京都本山での修行を終えたばかりで、三十歳そこそこの若い住職である。
 松雲は長い間、留守にした寺内を見渡し、まず何から手をつけたらよいか考える。

……彼は考えた。ともかくも明日からだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人の弟子や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞くことだと考えた。
 翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水に顔を洗った。法鼓(ほうこ)、朝課はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つかの山嶽も、その位置からは隠れてよく見えなかったが、遠くかすかに鳴きかわす鶏の声を谷の向こうに聞きつけることはできた。まだ本堂の前の柊(ひいらぎ)も暗い。その時、朝の空気の静かさを破って、澄んだ大鐘の音が起こった。力をこめた松雲の撞き鳴らす音だ。その音は谷から谷を伝い、畠から畠を匍(は)って、まだ動きはじめない村の水車小屋の方へも、半分眠っているような馬小屋の方へもひびけて行った。

  
 島崎藤村 『夜明け前 第一部』 第二章 一

 最後の一文を読んで、僕はふるえた。山寺の鐘の音が聞こえ、朝の景色が目に浮かぶようではないか。実にかっこいい登場の仕方である。
 まだこの時点では、松雲がどんな人物なのか明らかにされていない。だが、国学を学び、儒教仏教が渡来する以前の日本を純粋なものとして尊ぶ二十三歳の青山半蔵とは、全く違った思想の持主であることは確かである。