水村美苗 『日本語が亡びるとき』

水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

 作家・水村美苗によるエッセイ、『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 を読んだ。本書を知るきっかけとなったのは、上記、梅田望夫氏のエントリだが、新刊本をめったに読まない僕がこの本を購入した理由はただ一つ。水村が漱石オタク(研究家ではない)だからだ。
 僕も漱石が好きで、最近、漱石の主要な作品全てに関する記事を書き終えたばかりである。夏目漱石に関する書籍は星の数ほどあるが、一体現代の作家がどんな風に漱石を読んでいるのか、どんな言葉でそれを表しているのか、興味があった。そして、その点において本書は期待に違わぬ内容のものであった。

「亡びる」という言葉について

 本書のタイトルになっている 「亡びる」 という語は、何度も引用されている 『三四郎』 の登場人物、広田先生のセリフ、「亡びるね」 からとられている。非常にインパクトのある箇所なので記憶に残っているし、実際、僕もこの場面を引用したことがあるのだけれど、違和感があった。
 あれ? 「滅びるね」 じゃなかったっけ?
 気になって仕方がないので、図書館へ行って調べてみたところ、岩波書店の 「漱石全集」 およびそれを底本とする何種類かは 「亡びる」 、新潮と角川は 「滅びる」 表記であった。漢和辞典をひくと「亡」 も 「滅」 も同じような意味が書かれているが、「滅」 のほうには 「火の消えるようにあとかたなく消滅すること」(角川漢和中辞典) とある。どちらでも良さそうなものだが、本書の書名に関していえば、「亡びるとき」 が妥当である。日本語はあとかたもなく消滅したりするわけではないのだから。

水村は漱石が好きすぎる

 本書の中盤以降、繰り返し語られる漱石の 「読み」 は素敵である。こんな風に漱石の小説を読みかつ語ることができるのは素晴らしいことだと思う。“敵の懐に入り込む” という言い回しがあるが、水村の場合、懐どころか祖父の膝の上に抱かれて笑みを浮かべる幼児のようですらある。
 しかし、『三四郎』 を読んだことのない読者が本書を読んだ結果、『三四郎』 を読んでみたいと思うだろうか。同じく書中で言及されている 『福翁自伝』 の紹介の仕方が非常に巧いと感じるのに対し、『三四郎』 に関しては著者の思考がテキストに密着しすぎていて、わかりにくいものとなっていると思わざるを得ないのである。偉大な祖父の話をほかの誰かにきいてもらいたいと思うならば、まず自分が心地よい膝の上から降りなければなるまい。

「日本近代文学」って何?

 日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。

 日本語の 〈国語〉 としての成り立ちと歴史について延々と語り、そこから現代の国語教育へと論をすすめるやや強引な物言いだが、この論自体はそれなりに納得のいくものではある。しかし、水村のいう 「日本近代文学」 とは何を指しているのか。
 彼女が示す 「日本近代文学」 とは、「明治、大正、昭和初期」 のそれに著しく限定される。小説作品でいうと、二葉亭四迷浮雲』 (明治22年未完) から谷崎潤一郎細雪』 (昭和23年完結) までである。この 「日本近代文学」 と対照されるのが、〈大衆消費社会〉 における 〈文化商品〉 としての現代小説 (具体的に挙げられているのが 『ハリー・ポッター』) だ。つまり、両者の中間がすっぽりと抜け落ちているのである。
 「明治、大正、昭和初期」 というのは、大作家を輩出した時代であり、日本文学史上、最も重要な作品を生み出した年代であるのは確かである。だが、その時代のみを称揚するあまり、その後に続く戦後60年にわたる文学の歩みを、批判するのであればまだしも、完全に無視するというのはどうなのか。(三島、川端、大江については 「翻訳され海外で紹介された」 というのみ。太宰に至っては名前すら出てこない。)
 「明治、大正、昭和初期」 と現代との間につながりがないとしたら、「日本近代文学」 は過去の遺物になってしまうのではないか。著者の主張する 〈国語〉 は “昔の言語” にすぎないものとなってしまうのではないか。「日本近代文学」 と現代とのつながりについて語らなければ、水村の国語教育に関する主張自体が古めかしいもの、時代錯誤のものとされてしまう可能性は大きい。著者が書かなかったことを求めるのはないものねだりだが、このことに関しては自分の首を自分で締めるようなものなのである。

 漱石をはじめとする国語の祖父は、全く偉大な存在である。しかし、祖父の言葉を聞くのに、彼の膝に抱かれる必要はない。むしろ、正面に座り、傍らに跪き、あるいは教室の後ろの席で話を聞くほうが、彼の言葉を自分のものとし、今度は自分の言葉で語ることができるようになるのではないか――と僕は考えるのである。


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で