夏目漱石 『坑夫』

坑夫 (新潮文庫)

坑夫 (新潮文庫)

 夏目漱石の 『坑夫』 は明治41(1908)年に朝日新聞に連載された小説で、執筆順序としては 『虞美人草』 の後、『夢十夜』、 『三四郎』 の前にあたる作品である。
 本作のユニークな点はその内容もさることながら執筆された経緯にある。そのあたりを新潮文庫の巻末解説(三好行雄)から引用してみたい。

朝日新聞」には『虞美人草』に続いて二葉亭四迷の『平凡』が連載され、そのあと四十一年の元旦からは島崎藤村の『春』が載る予定だった。しかし、執筆のはかどらぬ藤村の希望で連載の開始がおくれ、急遽、その間の空白を漱石が埋めることになったのである。

 なんと、漱石は藤村の代役として起用されたのだ。ずいぶん豪華な執筆陣が並んでいることもあるが、ピンチヒッターとして突然、長編小説を書けと言われ、そのまま書いてしまう漱石の才能に、まずは驚く。
 漱石は、彼の元を訪れた荒井なにがしという青年から聞いた体験談を元に、本作を書き上げた。同巻末解説で、三好は 「漱石が書こうとしている坑夫の世界はまったく未知の対象であって、想像力による潤色や脚色を拒まれている。」 と述べているが、実際はまったく逆であって、ほとんど作者の想像力のみによって一つの世界を創造しているといって良いと思う。

 ストーリーはごく単純である。前半は一人放浪の旅に出た主人公がポン引に誘われて坑夫になるため旅をする話。後半は銅山(足尾銅山がモデルとされる)にたどり着いた主人公が、荒くれ者の坑夫たちに嘲弄されながら、地下の坑内に降りていく話となっている。前半と後半で主人公以外の登場人物が全員入れ替わってしまう展開はかなり無茶苦茶だが、そういう無理な展開に関して、主人公が 「これでは小説にならない。」 と嘆く場面があって、笑いを誘う。

「どうだ此処が地獄の入口だ。這入(はいれ)るか」

 上は鉱山の案内人 「初さん」 のセリフである。こういうワイルドなセリフがたくさん出てくるのも、本作の特徴だ。ほとんど冒険小説のノリである。いや、ノリだけではなく、全編を通じて主人公の冒険が描かれており、他の登場人物との会話や舞台となる場面の描写、小道具の隅々に至るまで、ロールプレイングゲームに近いものがある。(たとえば、漱石の小説には食事の場面がよく書かれているが、本作における食事、食べ物は“回復アイテム”という位置づけになっている。)

 『坑夫』 には“苦悩する近代知識人”は出てこない。前後の作品にみられるような絵画的に美しい場面もない。単純(シンプル)である。単純だが面白い。
 漱石の小説の中では最も目立たない作品ではないかと思うのだが、もっと注目されても良いと思う。