夏目漱石 『門』

 『門』 は地味な小説である。
 『三四郎』、『それから』 に続く漱石の前期三部作の完結編と呼ばれているが、ようするに“『それから』 の、それから”、前作のおまけ扱いである。しかし、本作は決しておまけレベルの小説ではなく、一個の独立した名編として読まれるべき作品であると思う。


キーワードは「過去」

 本作の大半は、宗助・御米夫婦の平凡な日常生活を淡々と描くことに費やされる。しかし、常に二人は不安を抱えており、全体が不協和音に満ちている。その不安とは何か、「過去」に何があったのか、というのが本作のテーマである。


衝撃的な回想場面

 過去から現在そして未来へと直線的に語られる時間軸とは別に、小説の中で、「過去」を回想する場面が挿入され、読者をその時間へと移動させ、登場人物と同様に「過去」を体験させる、という手法は、現在ではごく一般的なものだが、本作が発表された当時は画期的なものではなかっただろうか。
 というのは、これは映画的な手法だからである。(本作が新聞に連載されたのは1910年。映画でいうフラッシュ・バックという手法が先にあったのかどうか、わからないのだが。)
 漱石に限っていえば、前作 『それから』 以前の作品においては、「過去」を語る際、作中の人物に「過去」を語らせる方法が取られていた。しかし、本作では、登場人物が過去を回想するのではなく、話者が、主に人物の記憶を再現することによって、直接に「過去」を描写しているのである。
 本作には、このような手法による、かなりまとまった長さの回想場面が、三度に亘って描かれている。
 一度目は宗助の弟・小六の学業と家の経済事情について(これが一番長い)。
 二度目は夫婦の子供に恵まれない事情と御米の心情について。
 そして、三度目は宗助と御米の出会いと、友人・安井に対する裏切りについて。

 夫婦は崖の下の借家に住んでおり、崖の上には家主の屋敷がある。時折、崖の上から子供たちの賑やかな声が聞こえたり、ピアノの音が聞こえてきたりする。一見、何の変哲もない、むしろ平和な光景のようだが、後になって語られる御米の心情(彼女は流産、死産等によって三回も子を喪っている)を読むと、こんな情景さえ、不協和音の一つとなって、読者を打つのである。御米の「過去」が後から語られることによって生じる文学的な効果といえよう。本作にはこういった仕掛けがいくつもあるのである。


仏門をくぐる宗助

 「門」という題名は、漱石の弟子森田草平が決めたもので、辞書を適当に開いて、最初に目に入った文字だった、という逸話がある。のちに漱石は「一向に門らしくなくて困っている」といっているが、漱石の作品には題名を適当につけたものが多く、新聞連載小説のためでもある。


門(小説) - Wikipedia

 小説の後半、宗助が禅寺へ行き修行するくだりがあるが、どうにもこれは後から取ってつけたような感を拭えない。
 そもそも、彼は役所勤めのサラリーマンであり、休暇をとって、最初から十日間の予定で、鎌倉の禅寺を訪れている。彼自身、承知しているとおり、そんな短期間のお手軽修行で、悟りを開けるわけはないのだ。(実際に禅を信仰している方であれば、違った解釈も出来るのかもしれない。そのあたりどうなんだろう?)
 突然、宗助が禅寺へ行った真の目的は、現実からの逃避にほかならない。
 彼には、かつて親友・安井を裏切り、彼の妻であった御米を奪って結婚したという過去があった。非社交的な宗助が、崖の上の家主・坂井とせっかく懇意になったところ、坂井の家に安井がやって来ることがわかる。坂井の前で安井と対面したりしては、彼の過去が暴かれてしまう。そんなことになっては、この家を引っ越さねばならない、という事態を回避するため、宗助は家を空けようとする。漠然とした不安が、具体的な恐怖へと変わったのだ。
 禅寺から戻った後、安井は到来したものの、再び蒙古へと旅立ったと、家主から明かされ、宗助は胸を撫で下ろす。時間稼ぎは見事成功したわけである。

 平穏な夫婦の生活と、その底に秘められた不安。
 暗い過去と罪悪感の日々。
 そこに救いはない。
 しかし、深刻な問題は後回しにしながら、どうにか生き抜いていく。
 これが、この小説に描かれた夫婦の生き方の全てである。
 少なくとも、現在の僕はそのように理解している。

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

おまけ〜『門』の謎

【その1】
 小説の中盤に至るまで、主人公夫婦は一度も家主の顔を見たことがない。(家賃は下女に持たせて支払っていると書かれている。)
 不動産管理会社が全てを仕切る現代ならいざ知らず、いくら東京を舞台にした話とはいえ、そんなことがあるのだろうか?

【その2】
 新しい着物を買うにも散々迷うくらいの貧しさなのに、下女を住まわせている。
 『それから』 のヒロイン・三千代の家も相当の貧しさにも拘らず、下女がいたが、どれくらい現実的な話なのだろうか?

 漱石の作品には、現代の我々には理解しにくい設定がときどき登場する。そこがまた面白いと思うのだけれど。