河野典生 『緑の時代』

 一九六九年、新宿。ある日突然、街全体が緑色の蘇苔類に覆われ、死滅して行く。そのことに気づいているのは、《ぼくたち》数人のヒッピー族だけだ。そして、街の人々には《ぼくたち》のことが見えないのである。

 やがて、冬の陽がビルの向うに堕ちはじめた頃、屋上には静寂がひろがっていた。
 緑色の遊戯器具、緑色の母や子や二人連れ、彼らがまるで人形芝居の閉幕のように、完全に動きをとめてしまっている。
 屋上の風景ばかりではなかった。少なくとも、ぼくたちの見わたせる限りの風景が、人も車も電車も、何もかも動きを停めてしまっていたのだ。
 新宿日活のアドバルーンだけが、ただひとつ、ゆっくりと風にゆれていたが、やがてロープが千切れ、緑の巨大なボールが、空を滑って遠ざかり、消え去って行く。
 エレベーターも停止していたので、ぼくたちは階段を降りはじめた。途中、階段を上ろうとする姿勢のまま、停止している緑化人間が、数多くあった。彼らに軽く肩が触れると、まるで蝶の鱗粉が飛び散るように崩れ、四散してしまった。


 河野典生 『緑の時代』

 上に引用したのは、《ぼくたち》が新宿伊勢丹の屋上で目撃する光景である。新宿日活は当時の映画館。現在、マルイ本館が建っている場所だ。
 『緑の時代』は、河野典生(1935〜)が1969年、SFマガジンに掲載した短編小説。1979年にハヤカワ文庫版が出た頃に読んで、ちょっと古臭いなあと思ったのだが、30年経って再読すると、古臭さを通り越して、骨董品の香りがするから不思議なものである。
 《最後まで原因がわからないまま世界が滅亡するが、ほとんどの人々は事件に気づかなかったり、日常の出来事にしか興味を示さなかったりする》というプロットは、J・G・バラードニューウェーブSF作品そのままであり、目新しさはない。だが、1960年代の国鉄新宿駅周辺に舞台を限定した本作は、当時の建物、生活、風俗などが緻密に描かれていて、目を奪われてしまう。
 高層ビルやアルタがなかった時代。ビルの広告がビデオ・スクリーンではなく、アドバルーンであった時代。スクランブル交差点がなくて、都電が走っていた時代。
 《近未来》もしくは《もう一つの現実》を描こうとした作者の意図とは無関係に、『緑の時代』は一つの時代を切り取った掌編となったのであった。

【関連記事】
河野典生 『子供の情景』 - 蟹亭奇譚