谷崎潤一郎 『西湖の月』

 谷崎潤一郎は、1918(大正7)年と1926(大正15)年に中国を訪れた。特に第1回の中国旅行の後、「支那趣味」 と呼ばれる異国情緒あふれる作品を多数発表している。異国情緒といれば聞こえは良いが、要するに植民地主義的な臭いがぷんぷんする作品群である。

「旦那、今夜は支那料理でございますか。」と、案内者は私の顔を見てニコ/\する。案内者と云うのは三十七八の愛嬌のいゝ、日本語の巧な支那人である。


 谷崎潤一郎 『秦淮の夜』 (大正8年2月初出)
※強調部は引用者による。以下同じ。

……それはもう今から二三年も前の或る年の秋の末、北から南へ支那を漫遊して図らずも杭州に足を停めて居た一週間ばかりの間の、或る日の出来事であった。


 谷崎潤一郎 『天鵞絨の夢』 (大正8年11-12月初出)

 秋の末と云った所で中国の南部ではまだそんなに寒くはない。


 谷崎潤一郎 『西湖の月』 (大正8年6月初出。原題 「青磁色の女」)

 上に引用した3編の中で、『西湖の月』 だけは 《支那》 という語を用いずに、《中国》 と表しているのが目立つ。ひょっとしたら後から書き直したのかもしれないが、よくわからない。もっとも、《支那》 を 《中国》 に言い換えたところで、中国人に対する植民地主義的な視点が改まるはずもなく、そういう意味では一貫性に欠けると言えなくもない。


 『西湖の月』 は、中国を取材旅行中の 《私》 が杭州へ向う途中、列車の中で青磁色の服を着た中国人若い女を見かける場面から始まる。《私》 が杭州の名所、西湖の近くのホテルに泊っていると、なぜか隣りの客室のヴェランダに、くだんの女がいる。さらに、月夜の西湖を画舫*1に乗って風景を楽しんでいると、橋の下に女の死体が浮んでいる。その死体こそ、例の青磁色の女だった、という話である。

ふと気が付くと、胸の上に載って居る彼女の左の手頸には、今朝も私の眼についたあの小さな金の腕時計が、十時三十一分を示しつゝ未だに生きて時を刻んで居た。そのさゝやかな微かな針のチョキチョキと動いて行くのが、水の中に際やかに見えたくらいだから、どんなに晴れ渡った月夜であったかは読者にも想像が出来るであろう。………


 谷崎潤一郎 『西湖の月』

 ここに描かれる情景はあまりにも美しすぎる。病苦のため自殺した少女の死体すら、ここでは美しい月夜の風景の一部なのだ。
 現代ではこのような小説を書くことは不可能にちがいない。《支那趣味》 が持っている差別性、残酷さは時代錯誤だからだ。しかし、その文章上の美しさ、芸術的な価値は失われることのないものだと思うのである。


*1:がぼう。屋根のついた遊覧船。画像参照