シェリング&ルービンシュタイン/ブラームス 『ヴァイオリン・ソナタ』

 アルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982)といえばショパンである。
 まずは映像を見てみよう。1946年のアメリカ映画 『カーネギー・ホール』 より、ショパンの 「英雄ポロネーズ」 を演奏する場面から。

 ピアノってこんな音がするんだっけ? と思ってしまうほど、凄まじい轟音だ。これはもう音楽の世界遺産と呼ぶべき歴史上の名演なのである。しかし、彼はいつもこんなに激しい演奏をしているわけではない。1960年代にスタジオ録音された 「英雄ポロネーズ」 には、上の映像に見られる何かにとり憑かれたような熱気は全く感じられないのである。
 ところが、この轟音をヴァイオリンと共演しているときに 「やっちゃった」 のが、本日のお題のブラームスだ。うるさいだけなのである。早い話が失敗作なのだ。なぜこんなことが起こったのだろうか。
 ルービンシュタインポーランドユダヤ人家庭に生まれ、1898年(19世紀!)にベルリンでデビューした。ヨーロッパで長く活動した後、第二次大戦前にアメリカへ渡り、世界的な名声を得た。祖国愛、政治的亡命、アメリカでの成功と、いかにもアメリカ人が喜びそうなサクセス・ストーリーが見え隠れしている。彼の祖国への愛に嘘偽りがあるとは思わないが、どうもプロモーション上、そういうイメージが作られていたような気がする。1940年代に結成した「百万ドルトリオ」(本人はこの呼び名を嫌ったらしいが)なんて、金のにおいがぷんぷんする。
 ヘンリク・シェリング(1918-1988)も同じくポーランド出身のユダヤ人だが戦前にメキシコに移住し、音楽教師をやっていたところ、1956年に当地を訪れたルービンシュタインに見いだされ、アメリカ・デビューを飾った人物である。彼にとってルービンシュタインは恩人であるばかりでなく、室内楽演奏のパートナーとしてしばしば呼び出される大親分であった。
 さて、この二人がブラームスの 『ヴァイオリン・ソナタ』 を録音したときのスケジュールを以下に掲げる。

 4日間で4曲のレコーディングというのは十分な期間なのかどうかよくわからない。コンサートであれば、一晩でブラームスソナタ3曲を演奏するのはごく普通に行われる。だが、スタジオ録音となると話は別だ。たとえば、パールマンアシュケナージは3つのソナタを4日間かけて録音した。また、アルゲリッチはピアノ4重奏曲のみを5日間かけて録音している。演奏者の共演歴によって大きく異なるだろうが、リハーサルや録り直しを含めたスタジオ録音としてはやはり過密なスケジュールといえるのではないだろうか。*1
 さらに中間の3日間は年末年始である。これは想像だが、ホワイトハウスで行われるパーティで演奏したり、ニューイヤー・コンサートに出演したりといったようなこともあったかもしれない。
 その結果、ルービンシュタインがぶち切れてしまったのである。第1番、第2番はまだ良いのだ。問題は後半に録音された第3番である。特に第3楽章と第4楽章ではピアノが暴走を始め、共演者を無視して突っ走っている。息が合わないといったレベルではなく、ヴァイオリンの音をかき消すような轟音を鳴らしてしまっているのだ。
 YouTube に第2楽章だけがアップされていたので、ちょっと聴いてみよう。

 ヴァイオリンのちょっとかすれたような乾いた音が、シェリングの特徴である。この楽章でルービンシュタインは暴走こそしていないが、一番のクライマックスであるはずの 3:15 からの箇所で、ピアノがクレッシェンドを中断しているように聞こえる部分がある。演奏はそのまま続くのだが、ヴァイオリンが空回りしてしまっているように感じる。(続く二つの楽章はこれよりはるかにひどいのである。)
 思うに、ルービンシュタインはプレイバックを聴かなかったのではないか。あるいはレコーディングという行為そのものを重視していなかったのかもしれない。だが、迷惑を被ったのはシェリングである。普通に考えればボツになるような演奏が、そのままレコードとして世に出回ってしまったのだから。


ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全集

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全集

 さんざんなことを書いたけれども、第1番と第2番は決して悪くはないです。録音状態が悪くてピアノの音が割れていたり、なぜかときどきモノラルになってしまったりするのだが、シェリングのヴァイオリンの音はパールマンやムターにはない良さがあるのである。
 それから、ルービンシュタインブラームスにも 「大当たり」 盤があるので、その話はまた次回に。

*1:スタジオと書いたが、正確にはニューヨークにある American Academy of Arts and Letters という施設でレコーディングされている。