『上海』 読了

横光利一 『上海』 - 蟹亭奇譚の続き。

 建物と建物との間から、またひと流れの黄包車*1が流れて来た。その流れが辻毎に合すると、更に緊密して行く車に車夫達の姿は見えなくなり、人々は波の上に半身を浮べた無言の群衆となって、同じ速度で辷(すべ)っていった。……


 横光利一 『上海』 六

……高重は、まだ侵入されぬローラの櫓(やぐら)を楯にとると、頭の上で唸る礫(つぶて)を防ぎながら、叫び出した。
「警官隊だ。ふん張れ、機関銃だ。」
 しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。と、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が、泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上に飛び上ると、礫や石炭を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上る群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩れて来た。


 横光利一 『上海』 三〇

 『上海』 の主人公は 《群衆》 である。数名の男女が出会ったり別れたりセックスしたりする場面もあるが、彼らの抱えている物語には全く関わりなく、《群衆》 は押し寄せていく。
五・三〇事件 - Wikipedia
 本作は1925年に起った 《五・三〇事件》 を題材に書かれた小説だが、事件そのものよりも、背景となっている植民地社会としての上海という都市に焦点が当てられ、描かれているように思われる。

 泥の中から浮き上った起重機の群れが、錆びついた歯をむきだしたまま休んでいた。積み上げられた木材。崩れ込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜っ葉の山。舷側の爆(はじ)けた腐った小舟には、白い菌(きのこ)が皮膚のように生えていた。その竜骨に溜った動かぬ泡の中から、赤子の死体が片足を上げて浮いていた。……


 横光利一 『上海』 一五

 セックス、売春、人身売買、汚物、阿片、労働争議、暴動といった近代都市を象徴する事物が、河の中で淀み、逆流するのである。

*1:「ワンポーツ」 とルビが振られている。人力車のこと。