尾行

 連れ去られた妻を追って病院に潜入した 《男》 は、当直医が怪しいとの情報を守衛から聞き出した。

 当直医は男に目もくれなかった。喫煙所を左に折れて、緑色の標識の方へ向う。守衛が立去ったのと同じ方角だ。厚いレンズの後ろで薄眼を宙に据えたまま、姿勢も歩調も変えずに通り過ぎて行く。男は飲み残しのコーヒーを、紙コップごと灰皿にねじ込んで立上った。十五メートルほど間隔が開くのを待ってから、後をつけはじめる。
 最初の角にエレベーターがあった。当直医がボタンを押すと、すぐに扉が開いた。ちょうどこの階に停っていたらしい。医者が乗り込む。とても間に合いそうにない。早くも尾行しそこなったと思い、あわてて駈け出した。ジャンプ・シューズのせいで、七、八十センチも跳ね上り、つんのめりながら突進する。さすがに医者の注意をひいたようだ。停止ボタンをおさえて、待っていてくれた。敵に人格を示されるくらい、気詰まりなものはない。無言のまま頭を下げると、相手も無言のままこちらの足元を見つめた。


 安部公房 『密会』

 尾行中に相手とエレベーターの中で顔を合わせてしまう場面は、まるで Mr. ビーンのようである。まことに恰好が悪い。しかも、これら全てが盗聴されていて、《男》 はそのテープを聴きながら、手記を書いているのだ。何かの罰ゲームのような展開である。そして、さらに恰好悪いほうへ、話は進んでいく。
 教訓。誰かを尾行するときには、ジャンプ・シューズを履いてはならない。