墓参り

 岸本がフランスに行っている間、節子は出産以外に、乳房の手術(乳腺炎?)、手の病気(「両手にひろがった水虫のようなもの」と書かれている)を患い、相当具合が悪くなっていた。
 岸本帰国後の8月、彼は亡き妻の墓参りのため、大久保へ赴く。連れは二人の息子(泉太と繁)、節子とその弟(一郎)である。

……泉太は一郎や繁と並んで歩いて行きながら、
「あゝ、これが僕の生まれた大久保だ。」
 とさもなつかしそうに言った。節子は、ちょうど同じくらいな背にそろった三人の少年の後ろ姿をながめながめ、すぐあとから静かに続いて行った。
 以前に比べると寺の付近もずっと変わっていた。「叔母さん」へあげるための花を買って行きたいという節子を花屋の店頭(みせさき)に残して置いて、岸本は一足先に寺の境内にはいった。やがて節子は白い百合なぞの自分で見立てたのを手にさげて来て、本堂に続いた庫裏(くり)の入り口のそばで皆と一緒になった。


 島崎藤村 『新生 後編』 第二部 三十三

 上の箇所で僕が注目したいのは、節子が見立てた 「白い百合」 の花である。彼女が花を育てるのを趣味としていることは、本作に何度も書かれているのだが、百合という西洋の花を墓に供えるというのは、当時の習慣として普通のことだったのだろうか。
 私事だが、僕の祖母は節子と同じ明治20年代生まれである。その祖母が好きだった讃美歌に、『うるわしの白百合』 というのがあった。以下のような歌詞である。

 うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
 イエス君の墓より いでましし昔を


 (おりかえし)
 うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
 百合の花 ゆりの花 ささやきぬ昔を

 元はイギリスの讃美歌であり、明治以来、女学生の間で愛唱された歌らしいのだが、現在でも教会のイースターや墓前礼拝などで必ず歌われる讃美歌である。(参考リンク:復活を喜ぶ歌、賛美歌496番「うるわしの白百合」)そして、白い百合はキリスト教の墓前に供えるために用いられる花である。
 作中の節子のこのような心づかいに、そして作者の細かな心づかいに、惹かれるものを感じる。

 帰り路に向かう子供らを送るために、岸本はそこまで一緒に歩くことにした。彼は往きよりも帰りの節子のことを気づかった。まぶしい日光は彼でさえ耐え難かった。(中略)時には彼のほうから、不自由な境涯にある節子の要求を聞いてみようとして、一緒に歩きながら話しかけるような場合でも、節子ははかばかしい答えさえもしなかった。彼女はただ無言のまま、過ぐる三年の間のことを思い出し顔に暑い日のあたった道をひろって行った。
 「どうかして、この人は救えないものかなあ。」
 その心で岸本は別れて行く節子を見送った。長いこと彼は一つところに立って、三人の子供の後ろ姿や動いて行く節子の薄色の洋傘(こうもり)を見まもっていた。


 島崎藤村 『新生 後編』 第二部 三十五

 岸本が心配しているのは、節子の結婚のことである。彼女の体調が思わしくないため、縁談が思うように進まないでいるのだ。
 だが、ここで岸本が思い至らない(ひょっとしたら作者も気づいていないかもしれない)ことがある。それは、四十代と二十代では、時の経つ速さが全く異なるということだ。二十代前半の三年間といえば、当時は周囲の女性が次々と結婚していく時期である。数え二十四歳、適齢期を超えつつある女性のことを考える気持ちが、決定的に欠けていると言わざるを得ないであろう。