麦湯少女まとめ

http://d.hatena.ne.jp/toroleo/20090918/1253243196
強調部は引用者による。

天保に書かれた『寛天見聞記』には「夏の夕方より、町ごとに麦湯という行灯を出だし、往来へ腰懸の涼み台をならべ、茶店を出すあり。これも近年の事にて、昔はなかりし也」とあるように専門店である「麦湯店」も出現した。これは麦湯の女とよばれる14〜15歳の女子が、一人で食事もなにもなく麦湯のみを4文ほどで売るものであった。


 麦茶 - Wikipedia

そこはかとないエロスが漂う風情なのだが、なぜ「14〜15歳」というような特定があるのかがやや不思議ではある。12〜13歳ではなく、16〜17歳でもなく「14〜15歳」だったのだろうか。


 http://d.hatena.ne.jp/toroleo/20090918/1253243196

麦湯の屋台は江戸の夏の風物詩です。
脇に立ててあった赤い紙を貼った行灯に夕暮れになると灯がともり、とても風情のある景色でした。
(中略)
また女の子が一人で営業しているという不思議な職業でもありました。
麦湯だけで食べ物は何もありません。
一杯4文ほどで、暑い夜はたくさんの人でにぎわいました。
色気を売るところではありません、清純さが売りの店だったのです。
(つまり少女(14〜15歳の少女)が多かったのでした。)


 http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/000824.html

 江戸後期の風俗を記した『江戸府内風俗往来』には、「夏の夜、麦湯店の出る所、江戸市中諸所にありたり。多きは十店以上、少なきは五、六店に下らず。大通りにも一、二店ずつ、他の夜店の間に出でける。横行燈に「麦湯」とかな文字にてかく。また桜に短尺(たんざく)の画をかき、その短尺にかきしもあり。
 行燈の本(もと)は麦湯の釜・茶碗等あり。その廻りに涼み台を並べたり。紅粉を粧うたる少女湯を汲みて給仕す。」とあります。


 江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.87「麦湯」 ※むぎゆ画像あり。

明治六、七年頃、上野広小路、両国、万世橋付近に、夏になると麦湯店が盛んに開かれ、麦湯少女が、客にサービスした。吹矢店で得た賞品をを袂にして、その少女たちを張りに行く青年が多かったというから、麦湯店は、まさに現在の喫茶店の前身である。こんな記事を読むと、現在の非常時局に、コーヒー、紅茶などよりも、麦湯時代に還元することも一策ではないかと考えられる。


 菊池寛 随筆 『話の屑籠』 昭和十四年

 万世橋の最寄り駅は秋葉原である。来年の夏あたりは、浴衣コスプレの麦湯少女パフォーマンスを是非復活させていただきたいと思う。


麦湯の女―橋廻り同心・平七郎控 (祥伝社文庫)

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