五勺にしとこう

 学校を卒業した捨吉は、教会関係の伝手で翻訳の仕事につく。友人や良き先輩との交流も増えてきたところだ。しかし、彼の懊悩は止まらず、日々悶々としている。捨吉、二十歳のときである。

……自分の内部(なか)に萌(きざ)して来る狂(きちがい)じみたものを、自ら恣(ほしいまま)にしようとしてしかもそれが出来ずに苦しんでいるようなものをどうすることもできないような心が起って来た。何かこう酒の香気(におい)でも嗅いで見たら、という心さえ起って来た。この心は捨吉を驚かした。彼はまだ一度も酒というものを飲んで見たことが無かったから。
 こうした初心(うぶ)なものの食慾を満すような場処は、探すに造作もなかった。ある蕎麦屋で事が足りた。
「菅君、お酒を一つ誂(あつら)えて見ようかと思うんだが、賛成しないか」
 腰掛けても座っても飲食(のみくい)することの出来る気楽な部屋の片隅に、捨吉は友達と差向いに座を占めて言った。
「お銚子をつけますか」
 と、姉さんがそこへ来て訊いた。
「君、二人で一本なんて、そんなに飲めるかい」
 と言って菅は笑った。そういう友達はもとより盃なぞを手にしたことも無い人だ。言い出した捨吉はまた、何程誂えて可いかということもよく分らなかった。一合の酒でも二人には多過ぎると思われた。
 捨吉は手を揉んで、
「じゃ、まあ、五勺にしとこう」
 この捨吉の「五勺にしとこう」がそこに居る姉さんばかりでなく、帳場の方に居るものまでも笑わせた。


 島崎藤村 『桜の実の熟する時』 十

 やばい。こいつら、かわいすぎる。背伸びをして、無理に格好をつけて、あげくに失敗する。(このあと、本当に酒五勺で酔っ払ってしまうのだ。)こういう男は、女の前でも格好をつけて失敗するのである。
 そんな捨吉たちが、たまらなく愛おしい。