苦手な算盤

 東京で書生生活を送る主人公・岸本捨吉は無事学校を卒業。主人が経営する横浜の商店の手伝いをしている。

 一日の売場の勘定が始まる頃には、真勢さんをはじめ、新どん、吉どんなどの主な若手が、各自(めいめい)算盤(そろばん)を手にして帳場の左右に集った。めずらしく兄もその仲間に入って、手伝い顔に燈火(あかり)のかげに立った。
 読み役の捨吉は自分で記(つ)けた帳面をひろげて、競うような算盤の珠の音を聞きながら、その日の分を読み始めた。不慣な彼も、「七」の数を「なな」と発音し、「四」の数を「よん」と撥(はね)るぐらいのことは疾(とつ)くに心得ていた。
「揚げましては――金三十三銭也。七十五銭也。八十銭也。一円と飛んで五銭也。弐円也。七銭也。五銭也。四十銭也。六十銭也。五十銭也。五十銭也。同じく五十銭也。猶五十銭也。金一円也……」
「何だ、その読み方は」
と兄は急に読むのを遮った。捨吉はめったに見たことのない兄の怒を見た。
「そんな読み方があるもんか。ふざけないで読め」とまた兄が言った。
 (中略)
 その晩、捨吉は何と言っても見ようのないような心持で、寝床の方へ行った。自分に不似合な奉公から離れて、何とかして延びて行くことを考えねば成らないと思った。


 島崎藤村 『桜の実の熟する時』 八

 いくらインテリであっても、プロの商売人の間では素人同然である。職業というのは厳しいものなのだ。しかし、大正8年発表の本作の後の年代について書かれた 『春』(明治41年)にも、似たようなエピソードが出てくる。失業中の主人公(名前も同じ捨吉である)が瀬戸物の絵付け工場で働き、一日でクビになってしまうのである。どうやら、捨吉はあまり学習しなかったらしい。
 『桜の実の熟する時』 は登場人物の名前など、『春』 と共通する点が多いが、兄弟の人数が違っていたり、微妙に設定を変えてあるところがあるようだ。

追記

 だいぶ後のほうに、「五人ある姉弟(きょうだい)の中での一番末の弟に生まれた」 という記述があった。兄弟の人数は合っていることになるが、一緒に上京したはずの、すぐ上の兄は登場しない。現実の人間関係について、そこまで踏み込めなかったのだろうか。