安部公房 『砂の女』

 砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。部屋の中にまで砂が降りそそぐその家には、一人の女が住んでいる。

 一滴の水をたよりに、土間の水甕にむかって歩きだす。ふと、イロリの向うで寝息をたてている、女に気づいた。男は、まぶたの痛みも忘れて、息をのんだ。
 女は素裸だったのだ。
 涙でにごった視界のなかに、女は影のように浮んで見えた。畳の上に、じかに仰向けになり、顔以外の全身をむきだしにして、くびれた張りのある下腹のあたりに、軽く左手をのせている。ふだん人が隠している部分は、そんなふうにむきだしにしているのに、逆に、誰もが露出をはばからない、顔の部分だけを、手拭で隠しているのだ。むろん、眼と呼吸器を砂から守るためだろうが、そのコントラストが、裸体の意味を、いっそうきわ立たせているようだった。
 しかも、その表面が、きめの細かい砂の被膜で、一面におおわれているのだ。砂は細部をかくし、女らしい曲線を誇張して、まるで砂で鍍金(めっき)された、彫像のように見えた。

 砂の女』(新潮文庫) 51〜52ページ

 女の肉体についての直接的な描写はこれだけであり、この後はもう書かれてはいない。だが、この視覚に訴えるかのような “全身を砂に覆われた女” は、澱のように記憶の底に溜まっていて、この小説のストーリーを最後まで牽引していくのである。

 『砂の女』 は昭和37(1962)年に発表された小説である。砂の中に閉じ込められた男があらゆる方法を使って脱出を試みる、というストーリーは、きわめて単純であり、直線的にラストまでまっすぐ進んでいく。文庫本で約260ページというのはほとんど長編小説と呼ぶべき長さだが、ほとんどワン・シーン、ワン・アイデア・ストーリーであるため、短編小説に近い構成となっているのである。 
 以前、『他人の顔』、『箱男』の感想を書いたが、これらの作品には、「別の展開、違う結末だったらどうなっていただろう?」 と考えさせる余地があった。しかし、『砂の女』 はそういった 《隙》 を感じさせる部分が全くないのだ(どちらを好むかは別問題だけど)。完璧に作りこまれた作品であり、作者が創造した 《砂》 の罠に、読者もまた捕えられてしまうのである。

 本作は、舞台装置も大道具も小道具も、すべてが砂で出来ている。食べ物にも砂が混じっているし、主演女優の衣裳さえ砂なのだ。(上の引用箇所を参照。)
 砂といえば、さらさら、ざらざら、じゃりじゃり、といったオノマトペを思いつくのだが、安部はこのような語句を一切用いない。(今回読み返してみたら、女の台詞の中に、「砂がごうごう、滝のように流れだしましてね」 というのがあった。他にもあるだろうか。) 僕のような素人読者が、砂を描写する文章を書こうとこころみた場合、オノマトペを使わずに書くのはきわめて難しい。すぐに行き詰ってしまうのである。ところが、作者の言葉の用い方、比喩の使い方はすさまじく、この作品を魅力あるものとしている。
 実に、何度読んでも楽しめる小説だと思う。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)