長谷川櫂 『震災句集』

長谷川櫂 - Wikipedia

燎原の野火かとみれば気仙沼


幾万の雛わだつみを漂へる

 八つの章から成る本句集のうち、二章の初めが上の二句である。かなりどきっとする句だ。
 特に雛の句。家庭に飾られる雛人形は、個人の所有物であり、親の代から受け継がれてきた家庭の財産である。我が家にもささやかながら祖母から受け継いだ一対の内裏雛がある。一方、震災の直後、テレビに映し出された津波の映像が記憶に焼きつけられている。津波に漂っていたのは「瓦礫」と呼ばれているが、瓦礫は最初から瓦礫だったわけではなく、元は誰かの所有物、財産、思い出の品々だったのだ。―― というのが、この句についての僕なりの解釈である。
 俳句だから、読者によって違った解釈も可能だと思うが、とにかく「あのとき」の衝撃的な光景を詠んだ俳句として、本書中最も印象に残る句だと思う。

『震災句集』が投げかける問題点

震災句集って? - Togetter
 Twitter ではこの句集に関し、さまざまな疑問、批判が寄せられていることを知った。これを受けて、僕なりに本書が抱えている、もしくは本句集が投げかけている問題点を列挙してみたいと思う。

  • 作者の実体験に基づかない俳句は評価されるべきなのか?
    • 震災が起こったとき、長谷川は東京にいたらしい。*1
    • つまり、句集に詠まれた気仙沼や福島の光景は、作者の実体験によるものではなく、新聞記事やテレビの映像等、メディアを経由した二次的な体験によるものである。このような形で編まれた句集は見たことがない。
    • 実体験に基づかない俳句、フィクションの俳句というものもあるとは思う。
    • 実体験に基づかない俳句を評価しない、という考え方は、小説でいえば「私小説以外認めない」考え方に相当する。一方、句集の読者の多くは自ら俳句を作る人々であり、彼らの多くは(僕自身も含めて)日常自分の体験した事柄を詠むのである。この違いに違和感を覚えることがあっても不思議ではないと思う。
  • 『震災句集』は一つの物語になっている。
    • フィクションとしての俳句、という前提に立って本書を読むときに、見えてくるものは何か。
    • 本書の一章は震災前である2011年の新年から早春、八章は2012年の同じ時期(という設定)の句が収められている。*2
    • 震災から一年経って何もかも変わってしまった、という物語仕立てになっているのである。
    • 「何もかも変わってしまった」のは事実ではあるが、ここで物語を完結させてしまって良いのか?――という疑問は残る。
    • 被災地での生活は今も続いており、復興は今後何年もかかると予想されるからである。また、茨城や千葉では毎日のように地震が起こっているのだし、原発問題は未解決のままである。
  • 上のような疑問や問題点はあるものの、我々日本国民の多くにとっての「共通の体験」として、今この時でなければ詠むことのできない俳句を残すことは、文学史上重要なことだと思う。
  • 記憶は風化するものであり、ほとんど忘れられていくものである。震災を詠んだ俳句のうち、10年経っても忘れられないものがあるとすれば、雛の句のような作品なのかもしれない。


震災句集

震災句集

*1:長谷川櫂 『震災歌集』による。

*2:実際に詠まれた時期とは異なる。まだ1年経ってないのに、「日本の三月にあり原発忌」という句もある。