川上弘美 『センセイの鞄』

「ツキコさん、デートをいたしましょう」


 川上弘美センセイの鞄』 「公園で」

 友人に「川上弘美を読むんだったら、最初の1冊は何がいい?」と尋ねたところ、勧められたのが 『センセイの鞄』 だった。最近、ごつごつ、ごりごりした小説ばかり読んでいたので、女性作家が書いた恋愛小説、しかもこういうやわらかな感触の作品を読むのは久しぶりである。
 70代の元教師ともうすぐ38歳の教え子の恋愛 ―― というシンプルなストーリーや個性的な登場人物は、ちょっとマンガ的だが(実際、マンガ化、ドラマ化されているらしい)、本作の面白さは季節感あふれる柔らかな文章そのものにある。

「蛸が、ほら、浮かんできますよツキコさん」とセンセイが指さすので、わたしはこくりと頷いた。
 蛸しゃぶ、というのだろうか、薄く透けるようにそいだ蛸を、たぎった鍋の湯にひらりと落とし、浮いてきたところをすかさず箸にとる。ポン酢につけて食べると、蛸の甘みと柑橘類の香りが口の中でとけあって、これはまた玄妙な味わいである。


 センセイの鞄』 「島へ その2」

 食べ物の描写もたまらない。短い文章の中に、視覚・触覚・嗅覚・味覚が詰め込まれていて、こういうのは映像では表現できない、文学ならではのものだと思うのである。しかも、食欲を刺激する、というより、官能に近い場面ではないか。
 《年齢差を超えた恋》 という月並みな惹句があるが、本作は30歳という年齢の差を乗り越えようとするのではなく、むしろ静かにセンセイの老いを受け入れていく物語になっている。つまり、そういう結末なのだけど、最後のページにはぐっとくるものがあった。


センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)