北村透谷を読む

 『北村透谷選集』(岩波文庫)を読んだ。
 本書には、北村透谷(1868-1894)の遺した作品が、詩、評論・感想、書簡・手記、小説の順に収録されている。

 恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ、……


 北村透谷 『厭世詩家と女性』

 透谷の代表的な評論 『厭世詩家と女性』 は明治23年、『女学雑誌』に掲載された。同誌の当時の編集人は巌本善治(1863-1942)である。巌本は明治女学校*1 の校長を務めた人物であり、時期は前後するけれども、透谷は彼のもとで働いていたのである。
 当時、子女をキリスト教主義学校へ通わせるような家庭では、自由な恋愛などもってのほかであったはずだ。結婚というのは親同士が決め、ほとんど顔も知らないような相手と結ばれるもの――そういう時代だったのである。
 果たして、透谷の評論は若き子女に大きな衝撃を与えた。彼の後輩にあたる島崎藤村は、明治女学校の教師を務めていたのだが、透谷の恋愛論を鵜呑みにしてしまったのだろうか、女生徒と恋仲(実際は片思いかもしれない)になり、女学校を辞職しているのである。
 また、透谷の 『情熱』 と題された評論について、藤村は 「「情熱」という語が非常に新鮮に感じられたと記している」*2 のだそうである。「情熱」という語は、当時の国語辞典に載っていない珍しい言葉だったのだ。
 ―― と、このように時代背景を知らないと理解しえない部分が多く、理屈っぽくて頭でっかちなところが見え隠れするのも事実である。

 拝啓
 親愛なる貴嬢よ、生は筆の虫なりと云はれまほしき一奇癖の少年なり、生は筆を弄ぶ事を以て人間最上の快楽なりと思考せり、然れども時として此たしなみは、却て云ふに云はれぬ不愉快を感ぜしむる事もあり、其(そ)は他ならず、詩文を試みて意想を写す能はざるの時、書簡を認めて所見を述ぶる事叶(かな)はぬ暁(あかつき)、精神鬱怏(うつおう)として殆んど人事を忘るゝに至る如き之れなり、


 北村透谷 『石坂ミナ宛書簡 一八八七年八月一八日』

 一方、本書の後半に収められた書簡・手記は、ほとんどが三歳年上の恋人(のちに結婚)石坂ミナへのラブレターを中心とする透谷の恋愛実践編であり、きわめて面白い。何しろ上に引用した最初のミナ宛書簡*3 は文庫本9ページにわたる長文の自己紹介、自分語りであり、いきなりぶっ飛んでいる。続く 『《北村門太郎の》一生中最も惨憺たる一週間』 と題された手記には、書簡の三日後の日付が記されており、先の手紙を書く前後の透谷の苦悩とドタバタぶりが正直に述べられていて、興味深いと思った。


北村透谷選集 (岩波文庫 緑 16-1)

北村透谷選集 (岩波文庫 緑 16-1)

*1:1885年に創立したキリスト教主義学校。西洋の宣教師が建てたミッション・スクールとは異なり、日本人のキリスト者によって創設された学校である。若き島崎藤村、北村透谷等が教壇に立ったことで有名。

*2:『北村透谷選集』(岩波文庫)巻末注より。

*3:島崎藤村の小説 『春』 にはこの書簡のほぼ全文が引用されている。