平田篤胤の遺品

 慶応三年の三月は平田篤胤没後の門人らにとって記念すべき季節であった。かねて伊那の谷の方に計画のあった新しい神社も、いよいよ創立の時期を迎えたからで。その月の二十一日には社殿が完成し、一切の工事を終わったからで。荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤、それらの国学四大人の御霊代(みたましろ)を安置する空前の勧請遷宮式(かんじょうせんぐうしき)が山吹村の条山(じょうざん)で行なわれることになって、すでにその日取りまで定まったからで。


 島崎藤村 『夜明け前 第一部』 第十二章 四

 平田篤胤の門人として認められた青山半蔵は、条山神社創立の式典を待ちかねていたところ、病気のため欠席する。半蔵の友人、景蔵と香蔵、そして先輩格の暮田正香は式典の帰りに、半蔵の家に立ち寄り、土産話をしている。
 神社には国学四大人(タイジンと書いて 《うし》 とルビが振られている)の遺族から贈られた貴重な遺品が飾られているという。

 平田家から条山神社へ寄進のあったという篤胤遺愛の陽石の話になると、一座の中には笑い声が絶えない。陽石――男性の象徴――あれを自分の御霊代として残し伝えたいとは、先師の生前に考えて置いたことであると言わるるが、平田家ではみだりに他へもらすべき事でないとして、ごく秘密にしていた。いつのまにかそれが世間へ伝聞して、好事の者はわけもなしにおもしろがり、高い風評の種となっているところへ、今度条山神社を建てるについてはぜひにとの山吹社中の懇望だったのである。平田家では非常に迷惑がったともいう。……(中略)……それほどのお望みとあれば、ということになって、平田家から送られて来たのが御霊代の大陽石だ。それにはいろいろな条件が付いていた。風紀上いかがわしい品であるから、衆人の容易にうかがい見ないようなところにしたい、これを置く場所はいかように小さく粗末でも苦しくない、板宮(いたみや)かまたは厨子(ずし)のような物でもいい、とにかく御同殿の物のない一座ぎりのところで、本殿の後ろの社外に空地もあろうから、そんな玉垣の内にでも安置してもらいたい。好事の者が盗み取ることもないとは限るまいから堅く鎖を設けてもらいたい、とあったという。
「しかし、平田先生も思い切った物をのこしたものさね。」とだれかがくすくすやる。
「そこがあの本居先生と違うところさ。本居先生の方には男女(おとこおんな)の恋とかさ、物のあわれとかいうことが深く説いてある。そこへ行くと、平田先生はもっと露骨だ。考えることが丸裸だ――いきなり、生め、ふやせだ。」


 島崎藤村 『夜明け前 第一部』 第十二章 四

 「陽石」とは男根の形をした石である。こんなものが本当に神社に祭られているのか!と思って、検索してみたら、なんと画像があった。
平田篤胤の陽石、初めて一般公開 高森の資料館 | トピックス | 信州Liveon
 しかも、2008年には一般公開されたことがあるらしい。

高森町歴史民俗資料館で、同町山吹の本学神社の社宝「平田篤胤(あつたね)の大陽石」を特別公開している。これまで一般に公開しておらず、町制施行50周年に合わせて初めて企画した。

 陽石は長さ60センチほどで、江戸時代の国学者平田篤胤の品として同神社内で目につきにくい場所で祭られ、同館に寄託された後も一切公開されてこなかった。同館によると、伊那谷は幕末から明治初期にかけて国学が盛んで、国学を学ぶ人たちが平田家に懇願して手に入れたとされている。

 景蔵と香蔵という二人の人物はしばしば登場するのだけれど、名前が似ているばかりか、常に二人揃って出てくるため、どちらがどちらなのかほとんど区別がつかない。中津川の実家の家業を放り出して、京都で倒幕派の活動を行ってきたというのだが、何をやっている人たちなのかよくわからないのである。
 一方、暮田正香という人物は、幕府を脅すために、足利尊氏の木像の首を取ってきて三条の河原に晒したという、いわばテロリストだ。幕府から追われ、木曾谷に身を隠していたが、帝の崩御のため大赦となり、晴れて自由の身となったばかりの男である。彼の活躍は、主に第二部に描かれることとなる。
 大政奉還と王政復古に挟まれた、束の間の平和なひとときの光景である。