樋口一葉 『たけくらべ』

 樋口一葉たけくらべ』 は明治28〜29(1896〜97)年に発表された小説である。

明治の少女恋愛小説

 美登利は吉原の花魁の妹。自身も近く花魁デビューの予定である。同じ学校へ通う信如(のぶゆき)は寺の息子。小心者で不器用だが、頭は優れている。夏祭りの日、信如の属する少年グループが喧嘩をしに来て、美登利の仲間の三五郎を殴っていった。(しかし、その喧嘩に信如は加わっていなかったことが読者には示されている。)
 秋雨の夜、仲間の正太と美登利がいつも集まる 《筆や》 で遊んでいると、足音がする。誰だろうと思い、正太が外に顔を出すと、そこには信如の後姿があった。

 信さんかへ、と受けて、嫌やな坊主つたら無い、屹度筆か何か買ひに來たのだけれど、私たちが居るものだから立聞きをして歸つたのであらう、意地惡るの、根生(こんじやう)まがりの、ひねつこびれの、吃(どんも)りの、齒(はッ)かけの、嫌やな奴め、這入つて來たら散々と窘(いぢ)めてやる物を、歸つたは惜しい事をした、どれ下駄をお貸し、一寸見てやる、とて正太に代つて顏を出せば軒の雨だれ前髮に落ちて、おゝ氣味が惡るいと首を縮めながら、四五軒先の瓦斯燈の下を大黒傘肩にして少しうつむいて居るらしくとぼ/\と歩む信如の後かげ、何時までも、何時までも、何時までも見送るに、美登利さん何うしたの、と正太は怪しがりて背中をつゝきぬ。

 強調部引用者)

 恋のはじまりである。いや、それまで意識すらしていなかった思いが急にこみ上げてきて、自分の気持ちを持て余してしまったのかもしれない。上の引用箇所は長いセンテンスだが、この一文の中に、主人公の心境の変化をこれでもかという風に描いている。特に、「何時までも、何時までも、何時までも見送るに」 という三度も繰り返されるフレーズを読むと、ぐっと引きこまれていくのだ。数え十四歳の少女の心理をこんなに切々と描いた小説を、僕はほかに知らない。

 このあとも、美登利と信如の近づく機会はあるのだが、二人は言葉すら交わせないままである。花魁初仕事の近づいた日から、美登利は不機嫌となり、友達の誰とも遊ばなくなるが、これは恋の病であろう。

……人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむも有れども母親一人ほゝ笑みては、今にお侠(きやん)の本性は現れまする、これは中休みと子細(わけ)ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順しう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹るもあり……

 ちゃんと彼女の母親にはばれていて、あたたかく見守られているのである。(不機嫌になったのは身体を売ったためという説があるそうだが、母親の言葉や態度を読めばそういうニュアンスのものではないことは一目瞭然であろう。)
 そして、結末は信如が僧侶になるための学校へ入る日、美登利の家の前にそっと水仙の造花を置いて去る場面。かっこよすぎる。美しく儚い恋の終わりである。

たけくらべ』 の音楽

 章が変わるごとに挿入される季語が、時間の経過を表しているのと同様、ほとんどの章に 《音楽》 が流れているのが本作の特徴である。祭囃子の喧噪、廓から聞こえる三味線の音、子供たちのうたうわらべ唄、正太が口ずさむ流行り唄など、賑やかな街を常に BGM が包んでいて、この作品世界を明るくあたたかなものとしている。まるでミュージカルのような光景なのである。
 同じく一葉が書いた 『にごりえ』 には、銘酒屋の客と女たちの歌声が不快なノイズとなって響き、主人公・お力を狂わせてしまう場面がある。『たけくらべ』 とは正反対の印象を与える描写だが、《音楽》 をきわめて効果的に用いている点は共通する。
 一葉の音楽についてのセンスはずば抜けており、同時代の日本の男性作家には決して成しえなかった独特の個性を発揮しているといえよう。

たけくらべ』 の魅力とは

 音楽ばかりでなく、さらに背後には大人たちの会話や噂話なども書かれていて、本作が決して 《子供の世界》 だけを表したものではなく、その向こう側にある厳しい現実、大人の世界をも描いていることを忘れてはならない。
 樋口一葉の小説は決して読みやすいものではない。それは文語体で書かれているからばかりでなく、さりげない言葉の使い方や、背後に描かれる重層的な作品構造のためであろうと思う。

 『たけくらべ』 を昨日から続けて、三度も読みかえしてしまった。
 美登利の母親の持つあたたかな視線は、一葉の作品の多くに共通する視点でもある。登場人物をみつめる作者の眼差しは常にあたたかさを感じさせる。そのあたたかさこそが、彼女の小説の最大の魅力なのだと思う。
 何度読んでも面白い小説である。


にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

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