広瀬正 『マイナス・ゼロ』

広瀬正 - Wikipedia

 『マイナス・ゼロ』 は、SF作家・広瀬正の最初の長編小説であり、時間旅行をテーマとした SF である。本作は昭和40年に同人誌 『宇宙塵』 に掲載され、昭和45年に刊行されている。

 時事問題を扱った小説には、すぐに古びてしまうものと、時代を超えて色褪せないものがあると思う。その点、本作は間違いなく後者に属する小説である。広瀬と同年代の SF 作家、星新一は 《小説では時事問題を扱わない》 ことをポリシーとして掲げていたが、広瀬は積極的に時事風俗を取り入れた。
 『マイナス・ゼロ』 における 《現代》 は昭和38年である。東京オリンピック開催、東海道新幹線開通の前年のことだ。昭和30〜40年代という時代の流れを考えると、厳密にいえば本書が刊行された昭和45年には、 本作はすでに古臭い部分があったはずなのだ。しかし、一度時代を経過した作品は、それ以上色褪せることなく、生き延びることとなった。それは本作の基底となっている主題が、最初から 《レトロ》 だからではなかっただろうか。
 主要な舞台となる 《過去》、昭和初期、戦中・戦後、昭和30年代というそれぞれの 《時代》 を、本作は見事に描ききっている。それぞれの時代の事件や風俗ばかりでなく、市井の人々の言葉づかいや仕草に至るまで、ていねいに書きこまれているのだ。(特に、昭和7年のデパートの電気製品売り場を探検する場面、自動車を買いに行く場面は素晴らしいとしかいいようがない。)
 また、異なる時代の人々が交わすトンチンカンな会話は実に楽しい。以下の会話は、昭和38年、(ソニーと思われる) 電気メーカーの開発技術者である主人公・俊夫と、昭和20年からタイムトリップしてきた幼馴染のヒロイン・啓子の会話だ。二人がある暗号(?)を解読しようとしている場面である。

「でも、啓子さん、これから先は、まるで雲をつかむようなんだ。あとは、そのうちに IBM を使って分析しよう」
「なあに? それ」
「電子計算機だ」
「ああ、計算機。あたしがソロバンでやりましょうか。二級のお免状持ってるの」
「ありがとう」

 SF が好きな人なら、上のやりとりだけで、メシを3杯くらいおかわりできるのではないか。本作にはこういう楽しいやりとりが、てんこ盛りなのである。(しかも、ラストは感動する。)

 『マイナス・ゼロ』 は、時間旅行テーマの SF 長編としては、R・A・ハインラインの 『時の門』、『夏への扉』 に並ぶ大傑作である。また、作品全体に流れる暖かなユーモアとノスタルジアは、ジャック・フィニィ、レイ・ブラッドベリに通じるものだ。
 SF はもう読まないつもりだったのだが、こういうのはたまらないのである。


広瀬正・小説全集・1 マイナス・ゼロ (集英社文庫)

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