レフト・アローン

 とある大通りに面した1軒のジャズ・バー。
 スピーカからは、ビル・エヴァンス・トリオの「エクスプロレイションズ」が流れている。


ビル・エヴァンスって、やっぱりスコット・ラファロと組んでたときのが一番だよね」
 カウンターで、甘口のカクテルを舐めながら、彼女は僕にそう言った。ジャズの話が出来る女友達は、多くはないのだが、語り始めると止まらないのが難点だ。
 僕は目の前のロック・グラスを見つめながら、黙って頷く。ベースのソロが始まると、僕の意識はスピーカの音に集中し、彼女の話し声はただの BGM になる。


 やがて、演奏は短いドラム・ソロへと変わる。
 ふと、顔を上げ、店の奥の方へ目をやると、カウンターの一番奥の席に、和装の女性が一人、座っている。細いうなじに、短い後れ毛。黒い帯には、大輪の糸菊。カウンターには、ワイン・グラスが季節外れのコスモスを飾る一輪挿しのように立てられている。


 和装の彼女は、バーテンと何か会話しているようだったが、話の内容までこちらには聞こえてこない。
 しかし、彼女の口調から、関西弁であることは理解できた。京都のひとだろうか。かすかに、「月命日」という言葉が、聞こえたような気がする。
 彼女は、懐から取り出した紙に、何かを書きとめ、バーテンに手渡す。バーテンは、紙を受け取ると黙って頷き、レコード棚から古い LP を取り出して、ターン・テーブルに乗せる。
 針が盤面に下ろされ、パチパチとノイズを立てる。


「レフト・アローン」


 ピアノのイントロに続いて、ジャッキー・マクリーンのアルトが哀しいフレーズを吹き始めると、店内の空気が一瞬にして変わっていく。


マル・ウォルドロンってさあ」
「しーっ」
 僕は、自称ジャズ通の女友達を黙らせる。


 曲が終わると、和装の女性は、「ありがとう」と、誰に向かってでもなく礼を言う。
 そして、席を立ち、僕たちの後ろを通って、店を出て行く。
 彼女が通り過ぎたあと、ほのかに香りが漂っていた。


「素敵な香りね。白檀かしら?」
 連れの彼女に、僕は答える。
「あれは、丁子っていうんだ」



  <了>



※フィクションです。

「レフト・アローン」について

レフト・アローン

レフト・アローン

 Mal Waldron "Left Alone"(1959年録音)
 ジャズの名女性シンガー、ビリー・ホリデイの死後、彼女を追悼してレコーディングされたアルバム。リーダーのマル・ウォルドロン(1926-2002)は、彼女の伴奏者として活躍したピアニストである。
 タイトル曲、「レフト・アローン」は、ビリーが書いた詞にマルが曲をつけたものだが、ビリーが亡くなったため、彼女自身の歌唱による録音は残っていない。
 このアルバムでは、アルト・サックス奏者、ジャッキー・マクリーンがこの1曲のみに参加し、ビリーが唄うはずだったメロディ・パートを切々と歌い上げている。