プリンツ/ブラームス 『クラリネット五重奏曲』

 夏の軽井沢。高齢の三姉妹の住む別荘で、彼女たちとそこを訪れた一人の青年がレコードを聴いている。

 やがて遠くからあるかなきかの音が聞こえてきた。音楽が始まったということが祐介の意識にのぼらないほどの幽かな音であった。同時に春絵の顔に複雑な表情が走った。老いた顔に不調和な悩ましい表情で、祐介は見てはいけないものを見たような気がして眼の前の空になった更に眼を戻した。夏の涼しい空気を伝わり、何重にも重なった弦楽器の音が応接間の方から次第にはっきりと聴こえてきた。
 戻ってきた冬絵は丸めたナプキンを取り上げると祐介の方を向いて、ブラームスの「クラリネットクインテット」、と説明した。
 みなそれぞれの思いがあるらしく誰も口を開かなかった。……(中略)……
 音の溢れた日常を送るうちに音という音を無意識に排除するようになっていた祐介の耳にレコードからの音楽が久しぶりに切りこむように入っていった。
 長い沈黙であった。


 水村美苗本格小説』 二 クラリネットクインテット

 同じ音楽であっても、老人が若かりし頃を思い出しながら聴くのと若者が初めて耳にするのとでは、全く違った受け止め方になるだろう。そんな場面に、ブラームス室内楽はうってつけである。
 クラリネット五重奏曲 ロ短調は、ブラームスが58歳のときに書いた晩年の代表作(1891年初演)。透きとおったクラリネットと弦の音に、僕もしばらく沈黙してみたい。


 上の映像はトーマス・フリードリ(1946-2008) というスイス人のクラリネット奏者とシネ・ノミネ弦楽四重奏団の演奏による第1楽章。


ブラームス:クラリネット五重奏曲

ブラームス:クラリネット五重奏曲

 こちらは、アルフレート・プリンツ(1930-)とウィーン・フィルのメンバーによる演奏(1980年録音)。ピアノ、チェロと共演したクラリネット三重奏曲もいいですよ。