エディト・マティスのソプラノを聴く

 エディト・マティス(1938〜)というスイス生まれのソプラノ歌手のことを、僕はほとんど知らなかったのだけれど、ベームの 「モツレク」 や 「フィガロ」、クーベリックマーラーなどいつの間にか彼女が歌っているレコードを何枚も持っていた。で、改めて彼女の歌唱を聴いてみたら、すごく良いのである。
Edith Mathis (Soprano) - Short Biography
Edith Mathis (Soprano) - Short Biography [More Photos]
 マティスのプロフィールの書かれたサイトの画像を見るとどれもかわいい。若い頃の写真もかわいいけど、年をとってもかわいいのだ。美しい歌声と恵まれた容姿。ベルリン・ドイツ・オペラでヒロインの役を演じて、これほど存在感のあるソプラノ歌手は何人もいないのではないか。天性という言葉は彼女のためにあるのだろう。
 だが、そんなマティスにも大きな悩みがあった。歯並びが悪かったのである。
 声楽家にとって、歯並びは声帯の次に大事なものだ。特に s や z など子音の発音を強調するイタリア語やドイツ語では、前歯に隙間があったら歌いにくいだろう。
 
 左の画像は40代のころのもの。右は54歳のときのものである。この間に歯の治療を行ったのだろう。マティスは若い頃から人気歌手だったのだが、50歳を過ぎてから歌唱法が変わり、声も表情も明るくなっていく。もちろん、そこには想像を絶する努力があったにちがいない。


 そんなマティスの歌唱の変遷を YouTube で見てみよう。

 最初は1966年の映像から、20代のマティスである。モーツァルト作曲のオペラ 『フィガロの結婚』 第1幕よりケルビーノのアリア。ケルビーノはちょっとエッチな美少年の小姓という設定で、女性歌手が男装して演じるのがお約束である。隣りで茫然としているヒロインのスザンナからリボンを奪い、その匂いをかぎながら歌うというフェティッシュな場面なのだが、時代のせいか保守的な演出になっている。(最近のフィガロだったら、スザンナを後ろからいきなり抱きしめたりするのが普通だ。)



 次は1970年のドイツ語版 『フィガロの結婚』。第4幕よりスザンナのレチタティーヴォとアリア(アリアが始まるのは 1:30 から)。マティスは主役に昇格している。映像の後半で顔のアップが映っているが、前歯を極力見せないように歌っているのがわかる。(やっぱり気にしてたんだねえ。)Susanna という名前からしs や z が並んでいるのだから皮肉なものだが。
 『フィガロの結婚』 は貴族と平民の階級格差を面白おかしく描いた作品である。その中で、伯爵の侍女スザンナは平民を代表する役柄なのだが、この場面で彼女は伯爵夫人と衣装を交換し、お姫様みたいな恰好をしている。(そこへケルビーノが現れ、勘違いをしてからドタバタ騒ぎになる。)



 続いて1972年の映像。バーンスタイン指揮、ウィーンフィルの演奏で、マーラー作曲 『交響曲第4番』 第4楽章。30分近い長さの第3楽章のあとに演奏されるエピローグ的な楽章である。最も素顔に近いマティスは実にチャーミングだ。彼女の美しい歌声がよく響いている名唱である。



 こちらは1986年来日時の演奏。モーツァルトの歌曲 『すみれ』。40代のマティスはオペラを卒業し、ドイツ・リート(歌曲)をよく歌うようになる。ちょっとやつれたようにも見えるし、この歌唱が良いのかどうか、僕にはよくわからなかった。



 最後は1992年。歯を治療した後のマティスの映像はこれしか見つからなかった。曲はリヒャルト・シュトラウス作曲の歌曲 『献呈』より。正味1分半程度の短い演奏が終わった後、司会者が登場してインタビューになる。(普通にしゃべっているマティスは初めて見たのだけど、笑顔がかわいい。)
 正直、僕はこの50歳を過ぎたマティスの歌唱が一番優れていると思う。齢を重ねて声が衰えるどころか、ますます美しくなっているのである。70歳を過ぎた現在ではさすがに引退してしまっただろうと思うが、こんな風に年をとるのは最高なのではないだろうか。


 最近、再発売されたシューマンブラームスの歌曲集(1994年録音)。ブラームスは 「雨の歌」、「子守歌」 など名曲が揃っている。この CD では50代にして絶好調のマティスの歌声が聴ける。あと、この CD には歌詞対訳の PDF ファイルが付属していて、ちょっとうれしい。


ブラームス:ワルツ集 愛の歌/3つの四重唱曲

ブラームス:ワルツ集 愛の歌/3つの四重唱曲

 こちらは近日発売のワルツ集。これはぜひ聴いておきたい。